平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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稽古をする・・・と大袈裟に身構える必要は無い

幸いなことに、私は武術の達人が友人にいます。かれこれ18年ほどの付き合いでしょうか? もう面倒だから20年越しの友人ということにしておきましょう。これから2,3年、20年越しの友人だと言い続けましょう。2,3年はいちいち年数数えなくてもいいから・・・なんてかなりいい加減な言い方ですが、こういう年数の数え方って別段バチも当たりませんし。

 

最初に出会ったときは、何だかとっつきにくい人だなぁ、という印象でした。あまりしゃべりませんし、言ってることがあまりよく分かりません。無論、武術稽古での付き合いなので、武術の話がメインになります。古武術仲間の人たちが何人も来る時期が続き、いっとき、大変賑わっていたものです。今は、それぞれに皆忙しくもなり、例のコロナ禍とかで集まりも限られてくるようになってます。それはさておき・・・

 

もう1200キロも離れてしまってるので、彼との付き合いは、結局、最初に密に稽古を共にさせてもらったのは、たかだか7年前後くらいでした。その後、沖縄に移り、3年後さらに3年間大阪で仕事をし、さらに3年間、沖縄で暮らし、またどうしても大阪に行かないといけない用事ができて大阪に移り、その用事はあっという間に済んだのですが、半年ほど大阪でまた仕事して、さらに沖縄へ、という目まぐるしい行き来をしました。今やっと沖縄に落ち着いてます。

 

なので、彼との武術関連での濃いめの付き合いは、7年プラス3年プラス半年で10年半くらい、ということになります。これだけでもとても貴重な年数を学ばせてもらいました。

 

大阪へ年に一度か二度ほどちょこっと行ったときは、臨時稽古もさせてもらい、古武術仲間が集まったりもして楽しいヒトトキがありました。懐かしい想い出です。それぞれにデカイ人、うまい人、熱心な人、面白い人、何もしない人、飛び入り参加の人、紹介の人、などなどが居て、中々の賑わいでした。稽古の後は、車以外の人は多少ビールを呑んだりもありましたが、大体はコーヒーとかお茶でしたね。大酒は・・・例外が一人いましたが。どうしてるんだろうなぁ。

 

その達人の友人と、今でも時々電話で話をします。今日も久しぶりに電話をかけ、古武術に関する話題で話してみました。スワイショウと正座合掌です。これを彼に習い、ずっとやってきた訳ですから。でも、達人でもなくサボリムシの私は、よく空白期間ができてしまいます。最近また、これではいけないとやり始めている最中です。で、その感想を改めて彼に言ってみた訳です。

 

今日言われた言葉、以前にも聞いたことはあるのですが、改めて聞いてもやっぱり、含蓄があります。

 

「稽古やろうなんて思わない方がええな。稽古やるんじゃなくて、自然に稽古になってる、っていうのがええで。」

 

「誰かと一緒に稽古できるのがええねんてこともないで。自分一人でできたらそれで上等ってことやで。」

 

なるほど・・・

 

ことさらにもったいぶって、オレは稽古してるんだ、みたいな自意識はあまり、いや、全然意味が無いということなのでしょう。むしろ、日常の自然の所作、動きによって、自分の在り方が研ぎ澄まされていく、稽古やってるつもりもないのに自然の在り方の改善が為されていけば、稽古ができていってしまう。そういうことなんだろうな、ということが分かってきました。改めて、中々深いこと言うなぁ、と感心しました。

 

それと、全く別のある方が私に対して最近、妙なことをおっしゃったことについても話してみました。この方は、別段、古武術の修練者ではないのですが、ときどき私から少し指導をさせていただいてました。それもごくたまにお伝えするだけのことでした。ご本人なりにとても熱心に勉強され、試行錯誤もされてます。お会いしたときだけ、かなり濃いお伝えをしたので印象に残っていたのでしょう。ある太極拳の大家のスワイショウより、私のスワイショウの方をよく思い出すと。そして私のスワイショウの方がしっくりくる、というようなことをおっしゃってました。さらに、私に対して、会う度に何だかどんどん体が大きくなっているように感じると。

 

お褒めの言葉をわざわざ記すのも不作法なことですが、少しその理由を推定してみました。私は体が大きくは全然なってません。ウェイトで言えばむしろ少し減らしてます。自分で減らしたのでなく、食事と運動のコントロールで自然に減りました。それが、この方にとっては、私の体がすごく大きくなっていってるように見える、そうおっしゃるのです。

 

腕周りも胸回りも別段変わりません。むしろ少し細くなってるんじゃないかと自分では思ってました。それが逆に感じると。これは、私とお話するときに、いろんな動きについての説明をするときのその体の動きのために私の体が大きく見える、ということだったのではないか、と思い当たりました。これは他の場面でも思い当たることがあります。これは伏せておきます。

 

友人にこれを伝えると、なるほど、そういうことなんやろな、と普通に合点していました。

 

人間の体のイメージというのは、非常に微妙なもので、肉体的なものだけで左右されず、その動きや内在する感覚で見え方が変わってくるのだろう、と想像してます。中々面白い話でした。

 

ともあれ、もう少し、稽古について、稽古なのだと特別に思わない稽古として、いや、稽古じゃない自然の形として、日常の所作として、自分の在り方を改善していくことが大切だということを噛みしめてみます。

 

スワイショウ、出来る内が花であり、正座合掌、できる内に実も出来る、そういうことなのでしょう。日常の所作もまた稽古にならないと面白くない。色々と考え合わせていき、習慣を磨いていくことで日常が稽古になっていきます。

 

やっぱりこの友人とは、時々話をしないといけないなぁ。それにしても、元気そうで何よりでした。