平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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スワイショウの替わりに

いつものようにスワイショウ40分を始めようとして、ふと思いつくことがあり、予定を変えた。以前までよくしていた四股踏みをすることに切りかえた。

 

というのも、四股踏みをしていて、腰痛が緩和する体験があったことに気づいたからだ。関節痛や腰痛は、様々な事故、怪我の後遺症として持続している。古武術稽古の中で偶発的に起きた事故で受けた傷もある。それらが総合して、様々な後遺症として残っている。亡父にもよく言われたものだ。体を鍛えるのもいいが、年を取ってからあちこち痛むこともあるから、気をつけなさい・・・と。

 

いや、全くその通りになっている。あちこち痛む。でも、めげはしない。何やかや対策を試みている。基本的に古武術稽古、いや、一般的にも武術に関わる人間は、どこかしら体を痛めている。大小に違いがあるだけだ。

 

元々、武術は、特に古武術は殺人技。何の因果か分からないが、古武術に関わるようになって、これが殺人のための技術だということは脳髄に染み渡るほどによく理解している。人間というものは哀しい生き物だ。生き延びるために、人を殺さなければならないという局面もある。自分を守るためだけではない、大事な人を守るためにもそういうとっさの局面がある。

 

そんなことには関わらない、自分は大丈夫だ、そう言い切れる人はいないと思う。

 

いや、人を殺めるくらいなら自分は死んでも構わない。そう言い切る人もごく稀にはおられるだろう。しかし、未熟な私はそういう域には中々入れない。

 

いざ、自分が殺されるかも知れない、という時には、正当防衛として人を殺めるかもしれない。ヒットマンから狙われたらもうどうしようもない、ということは覚悟している。まぁまだその域には入ってないだろうが。

 

別段そうなったらそうなったで、次への転生先はどんなだろう、と考えながら死ぬことになるかもしれない。いや、私を殺害する側があまりにも非道なやり方、例えば私の大事な人を害するとか大変卑怯なやり方で私を殺害するとかになった場合、エネルギー体として放浪する間に、その人を呪い殺してしまうかもしれない。

 

呪い殺す、というのは自分の中の感覚では、存在すると思う。三国志演義でも関羽を追い詰め、自決した関羽の首を刎ねた武将は、関羽の亡霊に苦しめられ憤死させられた。似たような実例は多数あるように思う。(この話はむろん演義の中の創作だろうが)

 

こういう話題にはすぐに脱線してしまう。三国志はあまりにも面白く、何度も読んだものだから。もっと時間があればもう一度読んでみたいものだが。

 

スワイショウから四股踏みへ変えた話。これはやっぱり面白いし有効なように感じる。以前のようにあまり足を上げない。上げない方が自然だし有効。痛みはあるが、やればやるほどに体がなじんでくるような感覚がある。途中、足裏伸ばしに変え、ゆっくり100回も取り入れる。これも最終の10回は深く深く腰を下げるようにする。最初から張り切らない。

 

四股踏みもするようにしよう。スワイショウはもういやというほどにやってきたから、少し飽きている。たまに、時間の合間にやっておいてもいいくらいの感じにはなってきている。しかし、全然やらない、というのは良くないだろう。

 

基本的に、古武術のワザが磨かれていくためには、こうした基本稽古をそれこそ死ぬほどに重ねておく、ということが最も有効だと自分では考えている。スワイショウもたいへん多くの変化があり、特に横スワイショウでは、変化への動きが自然に起き、様々な攻撃ワザ、防御ワザが誕生したりする。自然にそういう動きが誕生する訳だ。貴重な発見となる。ただ、関節技だけは分からない。いずれ近いうちに友人から教えてもらおう。まだまだ取得すべき技術は多すぎて、やることがたくさんありすぎる。ナンギなことだが、何もないよりは遙かにマシ。

 

全然関係無いが、昨日、ふと思いつき、一日、食を抜いた。たまに食を抜くことはやっている。やってみて、やはり定期的に抜くようにする方がよいように感じた。日程を決めてプチ断食を実行するようにしたい。体のリフレッシュ。脳みそのリフレッシュにも繋がるように感じている。いずれ3日くらい抜いてみるのも面白いかも知れない。

 

あと、正座合掌が残っている。やっておかないと。