平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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フルトヴェングラー ベートーヴェン 第九

音楽の話でありながら、少し下世話かつ現実的かつ何でそんなこと考えるの? 的なことを書いてみようと思います。ついついコロナコロナ的なことを書く日常が続いており、時々くたびれることがあるからです。昨日も、尾見茂が講演会をやるとかいう話が伝わり、仲間と一緒にアホ尾見に対する抗議集会を持った所です。集会と言っても300人÷???レベルですが・・・その話はまた別ワクで書きます。

 

私はそれほど熱狂的なファンではありませんが、一応クラシック音楽が大好きという人間ではあります。高校時代の同級生に変わり者がいて、結構破天荒かつ意味不明の言動をする同級生がいました。ピアノの練習を積んでいるらしく、中々素晴らしい演奏もしていました。私はたまたまクラシックギターを練習する友人をまた別に持ち、その人が行くギター教室になぜか5000円のギターを買って、トコトコ、金魚のフンのように着いていきました。なので少しクラシックギターを弾くようになり、ピアノ練習する友人とも繋がった訳です。

 

やたらクラシック曲の話をそのピアノ練習の友人とするようになり、これは良い、あれはダメだとか、この演奏家はすごい、あの演奏家はクズだ、とか、下らないことを話すようになったものです。とは言え、様々に色々とクラシック演奏を聴いていく中で、それなりに聞こえてくる音が見えてきます。見えてくる、というのもおかしな言い方ですが、そう言うしかない。音符を再現できるほどの才覚はありませんが、音楽の色が見えてくる、というのは自然に出来てくるものです。私にもその色は見えてくるようになったものです。

 

そうそう、同じく高校のとき、これは以前にも書いてますが、書いているだけで楽しいのでもう一度・・・ 高校2年? 3年? もう正確な時期は忘れましたが、ラジオでクラシック曲を流してました。私の好きな指揮者でクラウディオ・アバドという人が居ます。いや居ました、既に故人です。2014年に80才で亡くなってます。恐らく40代くらいの頃の録音ですからもう指揮者としてはバリバリですね。チャイコフスキー交響曲第4番? 5番だったかな。

 

・・・以前に書いた記事をもう一度。自分で混乱してしまっている。自分の心覚えにここにも掲載して忘れないようにしよう。

 

https://hirayamax.hatenablog.com/entry/2023/01/16/170435

 

再び思い出しました。高校時代のこの友人、どうしてるだろう? 会えたら会いたいものですが、生きてるかどうかの問題ですね。ハチャメチャだったけど今はどうしてるんだろう? 何度か出た同窓会では一度も姿をみせませんでしたから、どうかな? 

 

フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェン第九について書くつもりでした。随分回り道しましたが、このベートーヴェン第九も思い入れありますね。30代前後にえらく落ち込んだことがありました。ウツを三回ほどやってるのですが、これは2回目のことだったかと記憶しています。ウツになるきっかけは千差万別、2回目のウツが何をきっかけにしたものだったか今では記憶がありません。そう言えば、最近知り合ったとてもパワフルな方、私より3つ4つ上の男性ですが、色々お話している間に言われました。7年ほどウツで大変だったと。7年もウツを続けた経験が無いので、とてもつらかっただろうなと思っていると、ご自分から自殺未遂もしたことがあると言われました。見ると手首にくっきりと刃物で傷つけた跡が・・・でも今では新たな目標を手に入れ、とてもお元気にされてます。私の二回目のウツも何をきっかけになったのか分かりませんが、とりあえず回復できました。回復のきっかけも判然としません。ただ、一度だけ、ベートーヴェンの第九が偶然テレビから流れてきて、ひたすら涙を流しながら聞き通したことがあります。何だか心の中の苦しみという苦しみが、どんどん洗い流されていくかのような気持ちになっていきました。本当に不思議な体験でした。歌唱部分はドイツ語なので全く意味が分かりません。それでもなぜか萎えきった力が、知らず知らずの内にみなぎってくるような気持ちがしました。

 

ベートーヴェンの第九交響曲は不思議な覚醒能力を与えてくれるのかもしれません。今では、私はウツになることがありません。やることが沢山ありすぎてグズグズしていられませんので。まだまだやりたらないことがひっきりなしに現れてきます。その都度、ああでもないこうでもないとウロウロしながらも、ともかく前向きに進んでいくことをいつも考えるようにしています。ウツというのは病気ではなく、自分で勝手に落ち込み、自分で作る必要もない自己批判と劣等感の塊地獄を形成してしまうという、タチの悪い自家撞着に陥ってるのだと思ってます。自分ではっきりくっきりそんなバカバカシイことはやらない、と決めたらウツは吹っ飛びます。少なくともそう思うようにしてからウツにはなりません。

 

あまり気休めになるような言い方にもなってませんが、何かしら参考にしてもらえれば幸いです。ウツで死ぬのはもったいないので。

 

フルトヴェングラーのベートーヴェンの第九は、とてつもない迫力があります。何か悩める人間という人間に安らぎと苦悩の緩和を、これでもかとばかり催眠作用でトリップさせてしまえそうな、とてつもない自浄作用を、悩める人間が知らず知らずの内に獲得していってしまう、そんな不思議な力を感じます。

 

バイロイト音楽祭というのがドイツで続いていたそうですが、第二次大戦時中断され、戦後ようやく久しぶりに開かれたそれが、1951年のものだったそうです。そのバイロイト音楽祭の冒頭でフルトヴェングラーのベートーヴェンの第九が演奏されたとのこと。この演奏は世紀の名演として多くの人々の脳裏に刻まれることとなりました。

 

フルトヴェングラーは1954年に68才で病没します。あまり長生きはされなかったようです。長生き? いや、この1951年のフルトヴェングラーによるベートーヴェンの第九は、素晴らしい世紀の名演と書きましたが、さて、楽器を使って一生懸命演奏した楽器奏者も、感動した聴衆もまず殆ど間違い無く、今のこの世にはおられません。1951年と言えば、今から約72年前。当時20才の方々だったら92才。30才の方々だったら102才。殆どの方は亡くなっておられます。稀に90代の方でほんの少数の方は存命かもしれませんが、まず殆どの方はもう今の世に存在しません。演奏者も観客も・・・

 

何だか意味も分からなく不思議な気持ちになります。改めて、人間って必ず死ぬんだな、という現実を思い知ることとなります。ここで二通りの考え方に分かれます。

 

人間って死んだらそれで終わり。肉体の消滅によって、その時まで存在していた人間はきれいさっぱり、一般的には火葬されて骨になる。骨もやがて知らぬ間に消えてしまいます。土、チリになりますね。それでジ・エンド。その人間は影も形もなくなってしまう・・・たとえ墓に入れられても、当の生きていた人間は影も形も無く、あるのは骨のカケラ、灰ばかり。いずれ消えてなくなる。

 

もう一つの考え方は、いや人間は肉体と生命体エネルギーとに分けて受け止め、生命体について考えることができる。例え肉体は滅びても、魂としての生命体エネルギーは消えない。当面生命体エネルギーは宙に留まるが、いずれ他の生命体が発生するときに、生命体エネルギーが、言わば合体され、魂を持った肉体として再度、生物として復活する。

 

どちらの考え方を取るかは、個人の自由です。ちなみに、若い頃、そして壮年の頃、私は死んだら終わりとずっと思っていました。自分が消えて無くなるということのイメージが掴めず、随分苦悩したこともあります。今では考え方は変わり、死んで終わりじゃない、との感覚でいわゆる死を受け止めています。年齢が高くなるに従ってそういう考え方にシフトする人も多くなるのかもしれない。私も単にその内の一人かも知れませんが、今ではかなりはっきりとその感覚を受け止めるようになりました。

 

死んで終わりじゃ、面白くありませんからね。この間、ある方と話しているときに、人間って生まれ変わりだってあるし、死んで終わりじゃない、ってありえますよね、とかの話題になりました。その時ふと、別に人間が人間に生まれ変わるとは限りませんよ、宇宙人に生まれ変わるとかもありえますよ、みたいな話をしました。ひょっとしたら私はバルカン星人になるかもしれませんよ、と言うと、笑うどころか、それってすごく新鮮な考え方だと関心を持ってもらいました。まだ若い方でしたが、私の方が驚きましたね。