平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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個人主義

日本では個人主義という感覚はあまりないと感じている。最大公約数に如何にして間違えずに属することができるか? ということが生活を無事に続ける中で必要なこととされているように感じる。自分の意見というものを自由に言える、という環境もあまり育ってこなかったと感じる。根拠を具体的に示すことは簡単にはできないが、自分が生きてきた中でも、会った人たちが独自で獲得した情報や知識で自分の意見を述べる、という場面に出くわすことは稀だった。ごく少数だが、無論凄い人は居る。だが、大多数は自分の個人的な意見を表明するということはしない。

 

今回の新型コロナウィルスワクチンに関連する騒動においても、マスク、PCR、ワクチンのすさまじいまでの氾濫ぶりが当たり前に起きている。これが今の世相なのだが、何も自分で調べず騒動の中身について知らなかった時期、2ヶ月から3ヶ月を経過した後に、疑問を感じて調べてみた結果、すぐに大型の詐欺だということに気づいた。これは私が調べたから分かったのではなく、誰が調べても簡単に露見する本当に幼稚な詐欺だった。

 

気づいた以上は、行動を起こさなければいけない。私が決めた行動は、マスク、PCR、ワクチンの危険性についてできるだけ多くの人に伝え、危険から退いて欲しいということを伝える活動だ。しかし蟷螂の斧とはよく言ったもので、丸で歯が立たない。鉄壁の洗脳が社会全体に行き渡り、ほぼ微塵も取りこぼしがない。私の発信に対しては、冷笑と軽蔑が与えられるだけで、ほぼ誰もが私を陰謀論の塊だと認識する。

 

だからこそ今になって分かったことがある。日本という地域では、本当に個人主義という概念そのものが殆ど存在しないことになっている、という厳然たる現実があるということだ。同時に、私自身は、普通のレベルの個人主義という感覚を持っているので、現在のパンデミック詐欺に騙されるということから免れることができた。個人的には非常にラッキーだったと思っている

 

むろん生活上での不便はある。仕事に就くことができない。単にマスクという布きれ或いは紙きれを口元に着けない、というだけで、何らかの事業所や仕事先に就くことができない。人と面談しない仕事しかできないが、それは限られている。簡単には見つからない。ただ今、絶賛仕事探し継続中という状況だ。もうそろそろ具体的な生活設計を組み立て直ししないといけないが、中々に難しい。

 

ごく少数の人からは感謝されている。私の発信を知ることで、それまで知らなかったことを知ることができ、とても助かったと言われることがある。そのときは、私の活動も無駄ではなかったと少し安堵する。まだまだ不十分なのだが。

 

自分の人生の初期から、何となく今のこの世の中、特に人類社会というのはどうもかなりイビツなものだと感じてきた。そう言えば私はごく一般的な生まれ方ではなかった。両親とも韓国出身。父は一世、母は二世、その中で生まれた私は二世半か。ともかく日本の中で日本人として生まれず、いわゆる在日韓国人として生まれた。このきっかけにより、当たり前だが、ごく一般的な日本人としての感覚を持つことなく、若干違う人生を始めることができた。いわゆる在日差別というものを経験し、その都度、一応いやな思いと体験をし、腹を立てたり悩んだり、ということが続いた。そのおかげで国とは何か、日本人とは何か、在日韓国人とは何か、さらに言うと、個人としての人間とは何か、みたいなことを割合小さい頃から考える機会を持った。おかげで個人主義的な感覚が育ったのだと思う。

 

これは本当に感謝しなければならない。個人主義を元にいろんなことを考え、事象の成り立ちを考え、さらにそのウラに隠された目的を考えるという習慣がある程度身についていたということだ。そのために、国やメディアの言うことを信用することなく、自分の頭で考え、客観的な情報を探し求め、自己推量することで物事の実態を推し量るようになった。結局、コロナ詐欺に関しても、比較的容易に理解することができた。言わば命を護れる立ち位置に立てたということだ。ここは本当に亡父亡母に感謝しなければならない。

 

そう言えば偶然だが、つい最近、友人からの提案とアドバイスを受け、遠く離れて眠っている亡父母のための祭壇を自宅にこしらえた。と言っても別に何十万もするような仏壇を買った訳ではない。第一そんな金は無い。元々私は無宗教だ。数年前、引越の手伝いの時に只でもらった長テーブルに白い布きれを敷き、亡父母の写真を二つ並べて、前からあるちょっと小マシな茶碗を二つ置く。それに沖縄の海岸で拾った貝や石を大小9つ置く。これで完成だ。後は、毎日水を替えながら手を合わせる。時々色々な報告をしたりする。

 

父も母も消えて無くなってはいない。必ずどこかにいる。エネルギー体は不滅。私もいずれそうなる。もしそんなことはあり得ない。バカ者が考えるろくでもない妄想に過ぎない、と思うのなら、なぜ葬式なんかする? 何故○回忌とかする? なぜ盆の法事とかする? 霊なんか何にも無いと思うのなら何にもしなければいい。でもみんなやってる。私もやってきた。ただ、言われるがままにやってきた。だから、これからは自分で、自分の意思で自分の方法でお祭りをするようにした訳だ。

 

もっと多くの人がこういった個人主義を取り入れていけばいいと思うのだが、そう簡単には個人主義的感覚を持てるようにはならない。個人主義を身にまとうのは中々に困難なルートがある。第一、すべての事象について疑い、自分の脳みそを使い、さらに想像力洞察力観察力を養わなければならない。私もまだまだこれからもっと自分の個人主義を深め、さらに多くの人たちの助けとなるような活動と発信をしていきたいと思う。