平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

人生の様々な側面を表示します メール keitaisan@icloud.com 

在日地球人

在日地球人として発信しよう。

 

コロナばかりの話でも楽しくない。違う話題、そしてテーマとして考えるべき、恐らく私が死ぬまで関わらざるを得ないことについて書いてみる。これは日本の問題でもある。

 

私は在日韓国人として日本で生まれた、ということになっている。私の出生は、父が一世、母が二世だったので二世半くらいの立ち位置と言えるのだろうか。いずれにせよ、国籍は韓国のままであり、父も母も亡くなるまで韓国籍のままであった。帰化するという発想そのものが無かったと思う。私の家族の中では帰化している者も複数いる。自由だから別にそれでよいと思う。冒頭に、私は在日地球人だと書いた。この認識が自分には最も適合する。日本人だという人も、できれば自分は在日地球人だと認識すればよいと思う。自由だが。

 

一般的な論考に戻ろう。昨今、韓国や中国から帰化する人が多く、日本が帰化人に乗っ取られるかもしれない、というような言説が出回っているが、少し不思議な現象だ。これまであまり聞いたことがない。新しいタイプの在日外国人へのバッシング形態かと感じている。帰化人が選挙に出て議員になるのはおかしい、とか、5代くらい遡って戸籍を確認するようにするべきだとか、帰化の基準が緩すぎる、もっと厳しくしろとか、あるいは、帰化は禁止すべきだ、というようなものまである。

 

一種の排外思想だが、これはわざわざ作っているような印象も受ける。在日韓国人という立ち位置にいる私にとっても好ましからぬ流れだ。朝鮮人大虐殺という事件が1923年の関東大震災の時に発生している。これは紛れもない歴史の史実なのだが、この史実さえも実は何もなかったとか、ごく小さな事件に過ぎない、死者数も本当はもっと少ないなどの歴史改竄が進みつつある。今の日本、実は大変危うい踊り場に在り、遠からず日に、第二次大戦時のような暗黒社会に転落することになりかねない、と感じている。

 

念のため補足しておきたいが、私にはとても信頼できる日本人の友だちも大勢いる。多くの日本人から様々に差別され侮辱され、ひどい目にも遭い続けてきたが、多くの日本人の友だちと、全く同等かつ互いを一個の対等対峙のできる当たり前の付き合いもしてきた。15,6年前から沖縄と交流するようになり、沖縄での旅を何度か続け、とうとう沖縄に移住することとなったが、非常に解放される思いを味わっている。なぜなら沖縄では在日外国人差別というものが全く存在しないからだ。この感覚は当事者でないとあまり分からないかもしれない。いずれ個別に書いてみようと思っている。

 

私個人は、自分が韓国人という意識はあまり無い。韓国人の友人も日本人の友人もいるが、だからどうだ、ということは初めから無い。一概に○○人、という括りがあまり気に入らない。小学校4年の時に、突然級友から「チョウセン、チョウセン、チョトチガウー、お前の家スッゴイデ、ニンニク、ニンニク、クッサイクサイ、クッサーーー」とか言われて囃し立てられた。非常に驚いたものだ。今思い出してみて、中々の名文だなぁと感心する。(細部は忘れた)親や親戚から教えられたものだろう。ただ、彼の名誉のために言っておきたいが、同じ中学校に行き、同じクラスにはなったことはないが、偶然出会ったときに、挨拶を交わし、ふつうにやりとりしたことを覚えている。小学生時代に発した言葉は微塵もない。感覚も対等対峙で好ましいものだった。反省し、そういった愚劣な感覚からは脱皮していた。また会ってみたいものだが。

 

この体験から始まり、延々と在日韓国人であるが故の差別的案件に曝されることとなる。結構、あまり楽しくないことも続いたが、おかげで、色々とモノを考える習慣が身についた。同時に、差別されている人たちの思いも共有することができ、自分なりに自らを鍛錬陶冶するのに役だった。在日日本人として生まれるのではなく、在日韓国人として生まれたことに、本当に感謝している。いや、本当に皮肉ではなく、ラッキーな出生環境だったと感じている。冒頭に書いた通り、今では在日地球人としての感覚に基づき、もっと多くの人種、民族、言語と出会いたいものだと考えている。

 

一つ確認したいことがある。一般的な在日韓国人としてよくある傾向として、韓国人としての民族意識、愛国心を持つことで強い生き方、誇りを持った生き方に傾くということは丸で無かった。民族意識や愛国心をしっかり持つことで、排外的な環境で苦しい状況に対抗していく、それで元気をもらい、同国人と連帯感を持って人生を切り開く・・・という感覚は全く持てなかった。自分が○○人だと規定する習わしを持つということをあえて意識することが無かった。今では、民族意識、愛国心など、ドブにでも捨ててしまえ、という感覚が正しいと感じている。

 

自らの出自の通常とは違う状況に対して、若い時に一人前に思い悩み、一度日本の外に出たいと思うことがあった。その時は、「一体自分は何人なんだ? なぜこんなに嫌な思いを積み重ねないといけないのか? 愛国心、民族意識って一体何なんだ?」というようなことを感じていた。それで、大学を出た後、何とか就いた仕事をものの一年で止め、引越トラックの運転手を一年やって資金を貯め、ロンドンで一年近く生活するという体験をすることとなる。

 

この体験は自分にとっては非常に貴重なものだった。以前にも書いていることだが、何度でも書いておきたい。ロンドンは移民も多く、様々な国から来た人が普通に生活していた。むろん移民としての生活は厳しく、私自身の英語も全くままならずでスムーズな交流は難しかったが、それでも色々に感じ、考える所があった。ロンドンでの空手道場での稽古交流も大変意義深かった。ロンドン人との交流も非常に貴重な体験となった。最も親しい付き合いをしたロンドン人は名前がトム。奥さんは中国人。稽古後はいつもパブに行き、一緒にビールを飲んだ。ご自宅に伺い、夕食を共にしたこともある。その時に、自分の選挙権について話したことがある。

 

自分は日本で生まれたけれど、日本人じゃなくて韓国籍だということを説明する。そして選挙権が無いことも説明した。しかし、その時点で彼は意味が分からない。日本で生まれた? じゃ君は日本人だろう? いや、日本で生まれたからって日本人だとはならないんだよ。そう言っても、トムは???になってる。国籍の決め方が違っていて、日本では血統主義、イギリスでは生地主義となっている。その違いをトムは知らなかったので、日本で生まれたのなら日本人のはず、と思い込んでいた訳だ。選挙権のことについても驚いていた。税金は払ってるのか? 日本人と同じように払ってるよ。それで、選挙権は無いのか? うん、無いんだ。しばらく時間を置いてトムが言った言葉は、それはアンフェアだな、という言葉だった。自分にとってもこれは大変勉強になったやりとりだった。

 

最も大きかったのは、滞在末期に、思い切ってユーレイルパスを使い、一ヶ月かけて、フランス、ドイツ、スイス、オーストリア、スペインなどをバックパック旅行したことによる体験だ。ある種の緊張感も持ちながら、様々に交流させてもらうことができた。言うに言えない体験も多数あった。その中で得た体験は日本の中だけでは到底得られることのないものが多々あった。

 

スイスのカフェで、たまたま様々な国の若者と一緒にお茶する機会があった。確かユースホステルで一緒になった連中とのやりとりだったと記憶している。フランス人、ドイツ人、アメリカ人、中国人、ベルギー人、そして私「在日韓国人」などなど。複数の国籍といろんな言語が飛び交う体験をするなど、まず滅多にない。その滅多にない体験をするだけで、何かしら目が開ける思いをしたものだ。どんな会話をしたのかは全く覚えていない。私の英語が丸で貧弱なので残念だった。ただ、面白いことに、この一ヶ月のバックパック旅行で、英会話の力が格段に上がったことだ。あるアメリカ人から、君は何しにロンドンまで来たのか? と聞かれ、一応、英語の勉強をするために来たんだが、中々英語の上達ができなくて困ってるよ、難しいものだね、みたいな答えをしたら、何言ってる、とても上手にしゃべってるじゃないか、と言われた。その時に、アレ、オレ英語結構ちゃんとしゃべってるじゃないか、と思ったものだ。このまま1年2年と世界を回れば英語を習得できたかもしれない。だが、間もなく日本に帰り、あっという間に英会話能力はコッパミジンとなり、無くなってしまった。

 

もう一つ、非常に心に残っている体験がある。あちこちで出会う若者から色々と情報をもらう。その中で、出会う若者の殆どから、モロッコ人には気をつけろ、あいつらは皆泥棒だから、という話を聞く。半信半疑だが用心する気持ちにはなる。ところが偶然、二人連れのモロッコ人と出会い、3,4日同行することとなった。見た感じ、別に悪そうな人とも思えず、大丈夫だろうと勝手に判断して同行したのだが、腹巻き型の貴重品入れにトラベル小切手とパスポートを入れ、同行の間ずっと緊張していた。ところが・・・

 

それまでに出会った人たちの中で、最も紳士的で最も友好的で、さらに言えば、もっとも「いいヤツラ」だったのだ。もう楽しくて楽しくて、そしてとても勉強になった。そのときに思った。国という属性には何の意味も無い。良いヤツも悪いヤツも普通にどこにでもいる。▽▽人だから良いヤツということはありえないし、○○人だから悪いヤツということにもならない、そういう当たり前のことが身に染みこんだ。貴重な、本当に貴重な体験だった。

 

日本に戻ってから日本の生活に戻ったが、この1年のヨーロッパ体験で大変勉強になった。ちっぽけな差別意識など本当に意味が無い。さらに、優越意識などクズそのもの、確かなのは人間として自分がどう在るかということだけ。○○人という属性など何の意味もない。たまに、自分は純粋日本人だ、どうだ見ろ、5代遡ってもれっきとした純粋日本人だぞ、そういう者しか日本人と名乗る資格は無い、などとバカなことを言う者がいる。こういうのは残念ながら愚劣な考えと言わざるを得ない。

 

そして、今、残念なことに、そういった優越意識のはびこりを図ろうとする者たちが増えつつある。そして、在日韓国人や、在日中国人に対する排外意識がまたまた復活しつつある。元帰化人の議員リストなどというものが、ネットではびこっている。芸能人もチョウセンジンだらけだ、などと面白半分に「暴露」を続けて喜んでいる人もいる。危険な傾向だと言わざるを得ない。

 

純粋日本人という言葉そのものに愚劣性が存在することに気づいた方がよい。そして、純粋日本人ではなく、自分は在日地球人としての認識を持ち、日本人としての属性に重きを置くというような俗習に染まることなく、人間としてどう在るべきか、そして人格の陶冶において国籍は何の意味もないという現実を正しく理解することが肝要だろう。自分は、多くの日本人にもそういった目覚めをしてほしいと思っている。多くの外国人と交流し、様々な体験をすることでどんどん目が開いていく。残念ながら日本は島国で交流すること自体が難しい。その障壁を自分の行動と交流でぶち破る意識を持ってもらいたい。そうすれば魅力的な未来を互いに持つことが出来ると感じている。