平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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人間は死んで終わりじゃない

少し短い文で書く・・・というには随分重い、いや人によってはアホかと言われるようなテーマなので、短い文というのでは難しいかもしれない。ある程度の長さは覚悟してほしい。

 

実は友人と電話していた時に、「人間は死んで終わりじゃない」ということがお互いの話題になった。と言っても、私から言い始めたことだけど。このブログでも何度か書いているように、人間は死んで終わりじゃない、と最近考えるようになった。何となく突然なのだが、割合若いときから少し不思議なことは体験している。

 

いわゆる臨死体験的なこと、他、不思議な体験なんかは何度かある。2才くらいのとき、池で溺れた。自分の不注意なのか、誰かに落とされたのか分からない。どんどん体が沈んでいき、だんだん自分の周りが暗くなる。子供ごころにもとても怖くてどうなるんだろ、と思ってたら、突然、明るい光とともにお釈迦様のデカイ手のようなのがズボっと入り込んできて、私をわしづかみにして引き上げてくれた。お釈迦様の手だったのか大人(誰かは不明、その頃自宅で一緒に住んでいた当時14,5才くらいの親戚の女の子だった可能性がある、という位の想像しか出来ない)だったのかは分からない。暗くなりかけていた世界が、いきなりものすごく明るい世界に戻された、という記憶はある。一つまかり間違えば私は死んでいた訳だ。

 

他、成人してからも不思議なことはあった。いわゆる霊体離脱、というものだ。夜中、寝ている間にふと半分覚醒したような状態になる。あれ? 何だかおかしいぞ、と思っていると、自分の身体がフワフワしてきて、ちょっとしたテクニックを使うと簡単に身体が浮き上がるように感じてくる。こりゃ浮き上がれるんじゃないか、と思って試みてみると、簡単に身体全部がふわーっと浮き上がる。自分が寝ている姿も見えるし横で寝ている子供たちも見える。部屋の調度品、タンス、テレビとかも見える。ウワー、これって霊体離脱じゃないか、と思いながら、案外冷静な私。これは面白い、外に行ってみよう、と考え窓から外に出てみたりする。普通に飛べる。でも、やがて元に戻ることとなる、でないと普通の人生、普通の生活できないからね。

 

この霊体離脱は一度や二度じゃない、回数は覚えてないが、かなりの回数の体験がある。本当に霊体離脱だったのかどうかはむろん判然としない。タダの夢だろう、と言われてみれば、夢かな? と感じたり、いや、あれは本当にすごくリアルだった、なんて思える時もあったりした。

 

人間は死んだら終わり、ということに今の科学ではなっているらしい。しかし、今の科学というものを私は殆ど信じていない。人類の科学なんて思い切りショボイものだと考えている。第一、宇宙の起源なんていうのもどんどん変わっていっている。ついこの間までビックバンで宇宙が始まって急速に膨張している。宇宙の年齢は今の天文学で138億年・・・となっているが、他の研究では1兆年の可能性があるとか言われたりしている。最近読んだ「エイリアンインタビュー」という本では、その本で登場したエイリアンからの知識で、確か宇宙は数千兆年続いている、いや無限と言ってよい、みたいなことが書かれてあった。ちなみにこの本、トンデモ扱いする人と、いや、この本で本当に色々なことを考えさせてもらった、とても有益だ、という人に分かれる。私にはとても有益だったことは言っておこう。シンプルに考えて、SF小説だとしても一級品だ。読まれることをお奨めする。ただとても読みにくい文章だけど。

 

この本を読むちょっと前に、実は突然、自分の頭の中に、「人間は死んで終わりじゃない」というフレーズが浮かんだ。その後、丸で死ぬのが怖くなくなった。諦観として死を受け止めるというのではない、人間は死んでそこで終わりということではない、という受け止め方だ。

 

全然関係ないが、私は介護の仕事をしていたときに、ある重度の障がいを持つ若者の付き添いをしていたことがある。そのときに彼と交わした言葉があった。この若者は、中々に苦言が多く、(介護スキルがとても難しいのだ)また彼の言葉の追求も厳しく、多くのヘルパーが挫折し辞めていった。ところが私は丸でそんなことにはならない。彼に何を言われようが丸で平気の平左、言われることにずっと付き合う。何のつもりで言ってるのかどうかは全然考えない、とにかく彼から言われた通りに、ひたすらできるまで頑張る。怒られっぱなしだけど、腹が立たない。とうとう彼はしびれを切らして、(ひょっとしたら私を虐めてた? いやこれは言っちゃいけないかもしれないが、その可能性もなきにしもあらず、とだけ言っておこう、ゴメンな)私にこういった。

 

「○○さん(私のこと)はボクがこれだけ怒ってるのに、何で腹が立たないんですか!」

 

そう言われた私は困ってしまって、とりあえず自分の感覚を思い浮かべながら答えたものだ。トモダチ感覚で彼とは付き合っていたので、言葉遣いはトモダチ言葉。間違っても「お客様」なんて絶対言わない。他の事業所で、利用者に対して「お客様」なんて言ってるのを聞いてぞっとしたことがある。

 

「う~ん、何でやろ。オレ、○○○(呼び捨て)に何言われても、何でか知らんけど、全然腹立つことないんやな、ホンマニ。ごめんな。」

 

彼はこの私の言葉を聞いて絶句してしまい、文句をタラタラ並べるのを止めてしまった。また、その後しばらくしてからしみじみと彼に言った話もある。思い出した。

 

「○○○、オレなぁ、ひょっとしたら、オレと○○○は前世で反対の立場やったんちゃうかって思ってんねん。オレが障がい持ってるもんで、○○○がオレの世話してくれてたんとちゃうかって。せやから、めっちゃ○○○に前世でいっぱい世話になったから、今はそのお返しやってんのとちゃうかって。そやから腹立つどころやない、ってなってんのんとちゃうかなって。」

 

この私の話を聞いて、彼は、しばらく無言を続けた後、ボソっと言ったものだ。

 

「・・・そうかもしれませんね。」

 

こういったやりとりを経た後、私は彼とはめちゃくちゃ仲良くなった。真夏のカンカン照りに難波のあちこちをストレッチャータイプの車椅子に彼を乗せ、あちこちでブイブイ言わせたものだ。彼の好きなヨーヨー釣り、いやなんて言う? ユーホーキャッチャー? ええい名前忘れた、ともかく彼に言われるままゲームやってる内にはまってしもて、自分のカネで大損こいたこともある。あんときは参ったよ。今は1200キロくらい離れたから会うこともできないが、時々メッセージのやりとりはしてる。まぁ自分の子供みたいなもんだな。

 

ということは、突然、人間って死んで終わりじゃ無いって気づいた、ってさっき言ったことの、その前からそういった感覚の素地は自分にあったのかもしれない。何となくそう思う。

 

いろんな本を読んだり聞いたりする話で総合的に感じているイメージはこうだ。人間って、見た目の肉体の他に、別のものが存在する。それはエネルギー体とか霊体とか言われたりする。私はエネルギー体という言葉が好きなのでエネルギー体ということにしよう。そのエネルギー体は決して死なないし無くならない。さらに言えば、エネルギー体は、気の遠くなるほど前から存在していて、永遠というレベルで繋がり続けている。別に人間だから次がまた人間ということになるかどうかは分からない。ただ、因果応報とか天罰覿面(てんばつてきめん)なんていうことは起こりうる。だから、悪いことをしちゃいけないし、ひどいことを言ってもいけない、他人を愚弄してもいけないし、侮辱してもいけない。むしろ助ける方に心をくだくほうがいいに決まっている。だからそういう人生を送りたい。そしたら何故、生まれる前の記憶が無いのだ、という問いにはこう答えられる。何の因果かシステムか分からないが、生まれる前の記憶は消されてしまっている。ごく稀に前世の記憶が残っている場合があり、そういう人は前世のことについて事細かく説明できるという事例は山ほどあると。

 

それと、過去世という概念がある。要は、自分がたどってきた人生の中身のこと。辿ってきた人生の中身によって、人間の転生先は決まる。やっぱり人間として生まれ変わり、それなりに充実した生を再体験するか、過去世のひどい者、例えば人をひどい方法で殺めたり、侮辱したり愚弄したり考えられないほどひどいウソを付いたりし続けてきた者は、ゲジゲジとかインキンタムシのバイキンに生まれ変わったりする訳だ。

 

だから過去世をよくするために自然にがんばる。うそ付かない、本当の事しか言わない、子供たちを守る、悪いことをしたり言ったりしてる人は諭す、などなど、いくらでもやることがある。そういう人生を送れば、後悔はないし、(少ないし、と言っておこう、後悔することはやっぱり色々あるさ)何となくすっきりせいせいする。だから死ぬことは全然怖くない。

 

どうだろう、こんな所で。(今回の話の依頼をしてくれた友人に伝えてる)今回は少し語り口調で書かせてもらった。いずれ、もう少し学術的に成立する内容で(いやそんなことできまへんが)まじめに書いてみる。いつになるかはわかりまへん。