平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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ありがたい批評

いやーここまでのアマノジャクって特別天然記念物もんやね

 

一体何考えながら生きてんの

 

アンタ、めっちゃ変わってんね

 

いやー、なかなかのアホやでアンタ

 

アンタみたいにクセの強いの珍しいわ

 

どうやったらそんだけ、ひねくれられんの

 

筋金入りの変わりもんやね

 

いやほんまに珍しい生き物やね

 

逆立ちしながら世の中みてるんやね

 

***

 

私への批評では大体、上に書いたようなものが標準文言となる。簡単に言えば変わり者ってことになるのだろうけど、当の本人は丸で自覚がない。どちらかと言えばまともだと思ってる。ウソは付かないし、いやなことはしないし、嫌いな人には嫌いと言う。おかしな人には、正直に、あなたおかしいよ、と言う。身過ぎ世過ぎが下手だと言われるが、私はもっとも上手に世の中を渡っていると勝手に思ってる。なぜならウソをついて言い訳したりする必要がなく、正直に話し、正直に行動するので気が楽だし。こういった生き方のどこが一体おかしいのだろう、と本当に真剣に悩む。いや、悩む必要は無いから、普通に納得している。

 

こういうのが社会標準になっているような世の中だったら、ずいぶんラクだと思うのだけど、中々そうはならないらしい。翻って、要領よく、その場その場で対応を変え、カメレオンのように体の色、心の色まで変えてしまう人が賢い人なんだとされるようだ。

 

人間のエライ、エラクナイは、正直かどうかで決まると私は考えているのだが、今の世の中、そういう単純なことでは決まらないらしい。例えば、今の政治家とか官僚とか、役人さんとか、エライ(ほんとはエラクナイ偽物の)学者さんとか、そういう人たちと話していると、この人、本当に正気で話しているんだろうか? ここまでウソ並べて苦しくないのか? って感じてしまうことが多々ある。そんなじゃなくて、普通に本当のことしかしゃべらない、と決めると、いや、本当のことしかしゃべらないのが通常運行だとなっていると、何にも悩むことがない。だめなものはダメ。正しいことはしっかりウソ偽りなく正しい。これって当たり前なんじゃないだろか。それが当たり前にならない世の中って、どこかしらまがまがしく、気持ち悪いほど壊れてて、みかけ倒しの虚妄しか存在しない。哀しいことだな。

 

今はその哀しさが世の中に満遍なく行き渡っている。ものすごくつらいことだ。そういうつらい中でも、本当のことは本当のこと、ウソはウソ、卑怯は卑怯、美しいは美しい、汚れているは汚れている、そういう認識を普通に正常に持てるようにしていきたい。

 

ものすごく簡単なことなんだけど、何故かあちこちでうまくいってない。不思議だ。