平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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覚醒と感動と反省

覚醒、感動、反省、この三つは人生というしちめんどくさい稼業を送るに当たって、必須のテーマだと感じています。覚醒と感動と反省。どれもこれも、そう簡単に会得できるものではありませんし、手に入れたつもりでも実は全く不十分なもの、いやお話にならないほど低レベルなものであることも多い、ということになってたりします。

 

私は覚醒した・・・なんて言っても、一体何を? どのようにして? それでどうなったの? そう問われ、へどもどするようでは何の意味もありません。そもそも自分で宣伝するものでもありませんし。

 

私は感動した・・・これは基本的に自由。感動するのは大いに体験するのが大事。この部分は解放されているように感じます。人生、感動がなければつまりませんし。ただ、感動する内容にもよりますが。感動は得手勝手なもの、自由が認められてよいかもしれません。

 

私は反省している・・・これは実は大変難しいもの。人間、自分のやってることに間違いはないだろうか、と思いながら慎重に反省も重ねつつ人生街道を進む人もいれば、何の反省もなく自信満々で堂々と人生を歩んでる(つもりになっている)人もいます。また、人それぞれの反省の仕方があり、それが人に受け入れられるかどうかは別物。

 

考えてみれば、覚醒も感動も反省も、自前でできるものでありながら、他人の評価の前にボロボロ仕立てだったことがばれることもあります。でも、それでも何も考えない、何も感じない、よりははるかにマシ。こういったマインドの変化を自分で観察し、そこから得られる貴重な体験や果実を受け取ることも、人生冥利に尽きる所があるはず。考えてソンはないし、自分の前で繰り広げられる覚醒、感動、反省を見つめる作業も意味がない訳ではありません。

 

禅問答のようになってしまいましたが、ときどきこんな奇妙なことも考えてみたい、そう思って記述してみました。

 

実はある一つのテーマの中で、この3つが常に繰り広げられてます。古武術稽古の中で。古武術稽古は大変奥が深く、覚醒も感動も反省も、入り交じりながら感性の中に発生し続けます。例えば、自分は「突き」という分野で覚醒したんじゃないか、という感動を味わい、同時に、いやこんな程度で思い上がってはいけない、という反省も涌いてくる・・・一人芝居に過ぎませんが、そういう感性の体験を通して錬磨も続く、という解釈があります。意外と楽しいものです。

 

現在の社会状況である、「コロナ禍」ですが、これは複雑な思いがからみ、そう簡単に覚醒も感動も反省も涌きません。あえて言えば、混乱、カオスでしょうか。正解があっても決して大勢に受け入れられない、むしろあざ笑われる。あざ笑われるならまだしも、社会的に非難される、という事態にも陥ります。社会そのものがカオスになっていますし。現代の巨大詐欺が詐欺としてみつめられず、むしろ政府やメディアの玩具とされ、庶民が弾圧され続ける。多くの人が真実を見極める目を持たず定まらず、多くの虚報によってまどわされる。真実を求め、正直に真剣に発信するもその多くが批判され罵倒される。すべてがカオスになってます。ただ、その最中においても、気を腐らせず、むしろ笑って乗り切る、笑って交流を求め考えを提供しあう、そういった態度も大事かもしれません。ただ、方向性を間違えると多くが心的被害を受け、かつ物理的被害、健康被害(死亡を含む)が発生することも多々あります。厄介なものです。それでも笑って過ごしたい。

 

死を恐れていては何もできません。人間誰でもいつか死にます。いつ来るか分からない死を恐れ、如何様に思われようと、口に出すことさえ憚るようでは、生きていく活力も萎えます。自分の場合は、自分が定めた正義にもとることはしない、信念を定め、自分が正しいと信じることを信じ、当たり前に発信する、ということ。これに尽きます。

 

話題転換。先日の滝での体験ですが、これは小さな体験でありつつ、貴重なパワフルリフレッシュとして忘れがたいイベントとなりました。体と心の中で、力強さと心地よさが溢れ、そうか、これほどに幸福な一瞬を人間は体験することもできるのだ、という実感を手に入れることができました。これも大きな覚醒であったと感じてます。むろん感動でもありました。反省としては、もう少し朝早くに着き、他の人がいない中で思う存分味わいたかった、ということがあります。次回は朝早く、太陽が上がって間もなくくらいに到着してみたいですね。そのとき、さらに大きな覚醒と感動を得ることができるような気がします。30分ほど気功法を体験してみたい。その体験を為すこと叶うなら、龍になって跳び上がれるかも・・・