平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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亡父の言葉

ある本を読んでいる。約三分の一の分量を読んだ。全部読んでしまうまで何も書くことはできないので、書籍名は今伏せるが、時々瞑目しながら読み進んでいる。

 

亡くなった父の言葉を思い出している。

 

「お前は何にも知らない。何にも分かってない。」

 

そう言われたものだ。その頃、私は20代半ば前後だったか。自分なりにいろんなことに対してのある程度の知識は持っていた・・・つもりになっていた。若年の未熟ゆえ、バカな思い込みのせいで、ある程度、自分はモノを知っているなどと感じていたりしていた。とんでもない愚か者で思い出すと恥ずかしい。

 

今から思えば、本当に何も知らなかった。自分なりに、それなりに色々と本も読み、自分で考えもし、少しは知識や智恵を蓄えていたような気になっていた。

 

しかし、それは丸で心許ない、いつでもポキンと折れてしまうような枯れ木のちっぽけな枝っきれに過ぎなかった。

 

父から言われた言葉に、何となくムっとするような気持ちを味わったものだ。同時に、一体、父は私に何を言いたいのだろうか? 父の送ってきた人生が相当過酷なものだったということぐらいは理解している。理解しているつもりだが、どんな人間にも苦労はある。どんな特別な苦労をしたのだろうか。というような印象は覚えているが、具体的に父の苦痛や体験を想像することは出来なかった。具体的なことを何にも父は言わなかった。

 

父は小学校4年で学校体験を終えている。その理由についても、父は具体的に話すことはなかった。貧しい家庭だったということは漠然と聞いていたが、父の家庭における話も、今から思い起こせば、殆ど一切私に語ることがなかった。

 

今、自分はこの年になって初めて、父の言った思いに触れるような気がしている。私は、既に父が亡くなった年齢から8年も9年も上回る年齢となっている。何とウカツな自分であることか。何と自分は情けない感性でしかなかったか。本当に恥ずかしく感じている。

 

書籍を読み、(まだ中途だが、読み切ったときにどれほどの衝撃を受けるか、想像も付かない)これほどに打ちのめされたのは、そうそう無い。淡々とした記述なので尚更堪える。既に絶版となっており、多くの人が手に入れることはできないだろう。図書館の所蔵を確認した所、そこそこの所蔵はある。ただ、多くの人が手に取ることもないだろう。

 

亡父の人生については、父の死去後、様々に考えることがあった。あまりに親不孝な人生を送り続けてきた私にとって、予想以上に早い父の死去はとてつもなく大きな喪失感を味わうこととなった。親孝行したきときに親は無し、とはよく言ったものだ。

 

父の夢はよく見る。今でもよく出てきてくれる。殆ど穏やかな姿で出てきてくれる。哀しそうな顔をしていることもたまにある。人間死んで終わりじゃ無い、と今は分かっているので、亡くなった父も今は、何らかの形で存在していると思っている。既に転生しているか、あるいはまだ霊体として未転生かそれは分からない。いずれにせよ、元父であった存在が完全に消えてしまうことは無い、ということは理解している。せめてもの慰めになっている。

 

ただ、かつて父から、お前は何にも知らない、何にも分かってない、と言われたことについては私の心の中に消しきれない困苦の思いとして残っている。せめて、この父の言葉の理解に繋がるような思いを手に入れたいと考えている。その確実なきっかけとなるような書籍とたまたま出会っている、と今は感じている。この本をすべて読み切った後に、改めて父の人生を思う記録をしたためたいと考えている。