平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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アボジ

アボジ

 

もうこの言葉はさすがに知っている方も多いだろう。韓国語で父という意味だ。私のアボジはもう40年近く前に亡くなった。わずか61才という若さで亡くなった。肝臓ガンが判明してから3ヶ月ほどで逝ってしまった。まだまだ若かった私のことがさぞかし心残りだっただろう。

 

その頃、たまたま失業中だったので、アボジが入院してからは殆ど付きっきりだった。あちこち就職のための活動をしながらも、することが無くなったら入院中のアボジの所へ行くという日々が続いていた。

 

その失業というのが本当にお粗末な顛末だった。ウツのど真ん中からようやく立ち直り、ある会社で働いていた。だんだん仕事も出来るようになり、社長の覚えもめでたいというレベルにまでなっていた。思い上がった私は、徐々に、さらに思い上がるようになっていた。今思い出せば、私はいわゆるソウウツの気質があり、ウツが治ると今度はソウの状況にまっしぐら、となる。その頃がその時期だったのだ。妻を迎え、結婚式の時にも得意の絶頂だった。色んな方が来賓で来られ、社長も無論来ていた。一応仕事がかなりデキルという状況だったので、(ソウのときは何もかもがグルグル回り、電話番号なんかもどんどん頭に入る。ウツになるとホントニ何にもできない)社長も結構私のことを見込んでくれていたようだ。ところが、何でもない所からホコロビが出た。なぜか正義感を振りかざし、仕事場の同僚の不遇に対して少し社長に抗議したことが発端だった。結婚式から2週間後、結局、社長と大げんかになり、会社を辞めてしまった。

 

この件に関することは既に書いたが、いつ思い出しても自分の未熟さにため息が出る。若かったと言ってもこの時はもう30才になっていた。いくら歳を重ねても変わらない。今でもほとんど一緒だ。さすがにソウウツからは脱却することができているが、基本的にゴーイングマイウェイの道程は変わらない。いや、自分の話はまた今度。父の話を続ける。

 

これは前にも書いたが、結婚して2週間で会社を辞めてしまった、ということで、父は私のことが心配で心配でたまらなかったようだ。前にも書いたが、いきなり私の新居に来て、「お前のことが心配で心配でたまらんのじゃ。」と言いながら号泣してしまった。父がこれほどに泣く姿を初めてみたので、私は本当に驚いてしまった。父と同じように号泣し、二人で散々泣き続けたものだ。父には本当に心配をかけて悪かったと思っている。頼りない生き方で、父も生きた心地がしなかったのだろう。一体自分の息子はどうなってるんだ? いいかげん落ち着いてくれんものか。いつまでたっても丸で子供じゃないか・・・そういう気持ちだったのだろう。本当に申し訳なかったと今でもつくづく思う。もうとっくに父はいないが・・・ そうだ、昨年で父は生誕100年だった。月日の経つのは全く早いものだ。

 

父は、1921年生まれなので、日本による韓国占領(当時は朝鮮占領と言うべきか?)が一応の終わりを告げる1945年まで、実に24年間も被占領下での人生を送った訳だ。これが一体どういう意味か、どんな生活であったか、どんな苦労があったか、私には想像すら出来ない。ただ、父からは、殆ど家族の話を聞いたことがない。普通、韓国人の家では法事が重要視され、定期的にするものだが、私には殆ど記憶がない。わずかに祖父の写真を一枚見覚えがあるだけで、父の家族の写真はそれ以外、全く無かった。

 

父が、自分の親の話をしたことも無いし、兄弟の話もしたことがない。ただ兄弟の数は多く、確か父は8人兄弟の末っ子だったと言っていたのを記憶している。むろん、日本で出生した私は、その親戚と誰とも1回も会ったことがない。

 

父は私に、自分の幼少期のこと、少年期のこと、青年期のことを殆ど話したことがない。むしろ話したがらなかったと言ってもよいくらいだ。私には想像も付かない苦労、及び不快なことが山ほどあったに違いない。生まれた時から差別が続き、大戦時、被占領下であった朝鮮では、それこそ、戦場のピアニストの主人公が体験したことと類似の体験もしたと聞く。既に前の記録で書いた。

 

想像でしか父の人生を辿れないのは残念だが、少し父の少年期青年期を考えてみよう。生まれてから教育は小学校の4年までしか受けていない。受けることができなかった。日本の圧制下で、農家だった家は、土地の収奪で極貧に追い込まれた。食べるものがろくにない生活が続いたと言われている。歴史を少し調べてみて、父の生まれ育った時代は、子供たちにとって残酷な時期だった。結局、8人もの兄弟がいても、ろくに食べることができないから、あちこちの家をたらい回しになっていたのではないか、と想像できる。兄弟との縁も薄かったのだろう。一人として私に思い出話をしてくれることは無かった。

 

戦争が始まってからは、軍属として満州にも行き、働いたこともあったと聞いている。父にとっては、この軍属という身分がたまらなく恥だったようだ。私に満州で何をしていたのかと聞かれたとき、吐き捨てるように言ったものだ。「軍属じゃ!」

 

年代は分からないが、友人と連れもって日本にやってきた。食べるためだ。その時の友人は、義兄弟としてずっと付き合い続けてきた。よく○○さんはどうしてるかな、と言いながら連絡を取ったりしていたものだ。実の兄弟よりも義兄弟の方が付き合いが濃く、お互いに信頼して本当の身内のように付き合っていた。

 

肉親との付き合いは薄いものだったが、義兄弟との契りは深く、その点では幸せな交流を持っていたと言える。

 

私がまだ小学校に上がるか上がらないかのときだったか、いや、まだもっと小さい頃だったかもしれない。ある日、父の意外な強さを目の当たりにしたことがある。一人の男の人が店にやってきた。(父は紳士服の仕立てという仕事をしていた)何かしら、ヤクザっぽい、というかあまり良い印象を受けない男性だった。店に入るなり、いきなり、

 

「あー、ええ店やなぁ・・・ちょっと実入りがないでなぁ、まぁ少しばかりカネ出してくれんか。」

 

私は一体何の話だろう、と子供なりにぼーっと見ていると、父は、両手を生地の裁断台の上にどかんと下ろし、

 

「そんなカネは無い。」

 

の一言だけで、その男性を正面からにらみ付けたものだ。

 

 

男性は、ジロっと父を見てしばらく佇み、やがて何も言わず、道路の方を振り向いて店から出て行った。

 

子供ゴコロに、うゎー、お父ちゃんって強いなぁ、カッコいいなぁと思ったものだ。明らかにややこしそうな人間だというのは見てすぐに分かる。子供の私でも分かったくらいだから、相当アヤシイ人だったのだろう。それでも、父は全く動じることなく、当たり前のようににらみ付け、簡単に追っ払ってしまった。スゴイなと思った。その後、父は何事も無かったように、仕事に戻ったものだ。

 

父の苦労は相当のものだったのだろう。こんなチンピラなどヘでも無かったのだろう。日本に来て間もない頃は、なかなか仕事が見つからず、国道26号線の道路工事の仕事もしたと聞く。義兄弟とともに働き、トロッコの持ち上げ比べなんかもしたそうだ。それほど大柄でもなかったが、力も強かった。幸い、朝鮮人を差別しない日本の親方(父はそういう言い方をしていた)に出会い、洋服仕立ての仕事を覚えることができるようになった。軍属として働いていたときも服の仕事をしていたと聞く。軍服を縫い上げる仕事だったのではないか。

 

洋服店の仕事はけっこう繁盛していたと記憶している。朝から晩まで、それこそ晩の1時2時まで仕事をしていた時期もあった。狭い家に、職人さんも何人か通ってきていた。仕事はかなりきつかったと思う。結局無理がたたって早く逝ってしまった。

 

父の人生は本当に過酷なものだった。いや、父だけでなく、日本人にとっても、戦争の時期を超えて生きた人たちは大変だった。沖縄の人達の苦労を知ると、本当に過酷な日々だったのだな、と分かる。父の苦労は沖縄の人たちの苦労と重なる気がする。戦争は本当に邪悪なものだ。意図して起こされているものだが。

 

人間とはつくづく愚かな生き物だなと思う。愚かな生き物だが、人としての生き方として、恥ずかしくない生き方はしたい。父は、誰に恥じることもない、素晴らしい人生を送ってきた。別に有名でも金持ちでも何でもないが、ウソをつかず、人には誠実に、いろんな人から信頼されながら、地道な人生を歩んできた。

 

アボジを誇りに思っている。