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私の戦争犯罪 吉田清治 朝鮮人強制連行 まえがきと付録1 書き起こし

吉田清治 2冊目の書籍について、まえがきの部分と付録としての講演の部分があります。その二つの箇所を書き起こししました。まだもう少し校正が必要だと思いましたが、既に書籍を図書館に返却したので、後ほどまた機会を見て確認し、必要な校正部分を修正します。大意に影響ある誤りは無いと思うので、とりあえず、掲載します。

 

吉田清治については、日本では、限りない誹謗中傷が繰り返されており、多くの人たちが彼の著作は詐話であり、証言とは値しないと見る人たちが沢山います。でも、著作を読んで、簡単にそう思えてしまうということは多分無いでしょう。それほどに記述が具体的であり臨場感があり、経験が無ければ書けないような記述に溢れています。そして、彼が記述する内容には、自己批判が含まれています。

 

私が知人に吉田清治の本を見せたとき、少し目を通してみて、言われたことがあります。この人は、神様に許しを乞うためにこの本を書いたのでしょう、と。思わずハッとしました。成るほど、吉田清治は真実を語らないまま、謝罪をしないまま人生を閉じるということには耐えられなかった、ということなのかと思わされました。

 

残念ながら、多くの日本人が彼の著作を誹謗し貶め、まともに扱おうとしません。しかし、韓国もアメリカも、この人物の証言を不審視せず、充分に検証した上で、日本軍による性奴隷制度に関する人権侵害の資料として取り上げています。その現実に注目すべきかと思います。

 

このまえがきと講演記録を読んだ後、是非、真っ白な頭でこの本を読まれることをお奨めします。今なら図書館にあります。いずれ読めなくなるかもしれません。既に「はだしのゲン」が焚書されていきつつあります。

 

書き起こしは以下です。

 

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私の戦争犯罪 吉田清治 朝鮮人強制連行  (1983年)

 

まえがき

 

 大韓民国の全斗煥大統領と、朝鮮民主主義人民共和国の金日成国家主席が、生まれたときは、不当にも、朝鮮人は「日本人」とされていて、38年前までは私と同じように、「大日本帝国臣民」であったが、そのころの歴史上の事実について、考えようとする日本人はほとんどいなくなってしまった。

 朝鮮半島は38年前は日本の領土であって、現在38才以上の大韓民国の国民と、朝鮮民主主義人民共和国の人民は、「日本人」であることを強いられていた。日本政府は当時の朝鮮半島の朝鮮民族2200万人にたいして、「皇国臣民」として日本人に同化させるために、法令を公布して、父祖の代から受けついできた民族的に貴重な朝鮮語の氏名を廃止させて、日本語による日本式の氏名に改名させたのである。「全斗煥」「金大中」と名のることも呼ぶことも法令によって禁止して、適当な日本語の氏名に改名させたのである。それは「創氏改名」と言って、たとえて言えば、日本が太平洋戦争に負けたとき、「鈴木善幸」「田中角栄」と称したり、「ゼンコウさん」「カクさん」と呼ぶことがアメリカの法律によって禁止されて、「ジョージ」や「カーク」などと、アメリカ式ネームに改名させられたようなもので、世界史にも珍しい被征服民族にたいする民族性の抹殺政策であった。

 ことばはその民族の文化の基本であるが、朝鮮民族固有のことばである朝鮮語は小学校で使用が禁止されて、朝鮮半島における学校教育はすべて日本語による教育が行われた。そして宗教も、「アマテラスオオミカミ」や、「ジンムテンノウ」を拝むように、日本人が建てた神社へ毎月一回以上の参拝を督励して、特に朝鮮民族の青少年にたいしては、日本の「神道」を信仰するように強制していた。全斗煥大統領と金大中氏も、少年時代には、日本人の神社へ参拝させられて、「キュウジョウヨウハイ(宮城遙拝)の最敬礼」をして、次の三か条の「皇国臣民の誓詞」の朗唱を、強制されていたのである。

 

一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス

二、私共ハ心ヲ合ハセテ天皇陛下ニ忠義を尽クシマス

三、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派な強イ国民トナリマス

 

 太平洋戦争中は国民にたいする戦時体制が強化されて、朝鮮民族にも日本人と同じように「徴用」と称する労務動員が実施されたが、日本人の徴用とはその取り扱いが異なり、朝鮮半島の徴用は、「ドレイ狩り」のように行われていた。

 私は昭和7年(1942)年から敗戦までの三年間にわたって、「山口県労務報国会」の動員部長として、朝鮮人の徴用業務に従事したが、私は朝鮮人にたいして、「ドレイ狩り」を「臣道実践」「滅私報国」の日本精神による「愛国心」をもって行ったのである。朝鮮半島の全羅南道では、私は朝鮮人巡査たちから「徴用の鬼」と言われていると、道庁警務部の日本人警部補から聞いたが、当時は忠勇な軍人が、「鬼分隊長」「鬼軍曹」の勇名をとどろかすことを名誉だと考えていたように、私は非人間的な「愛国心」に徹していて、朝鮮人から「徴用の鬼」と言われたことを誇らしく思っていた。

 朝鮮人徴用の公式記録や関係文書は、敗戦直後に内務次官通牒にもとづき、全国道府県知事の極秘緊急命令書が各警察署長宛に送達されて、完全な廃棄焼却処分が行われた。私の関与した山口県労務報国会下関支部の場合は、下関警察署特高係の署員たちによって、すべての徴用関係書類と朝鮮人勤労報国隊出陣記念写真などが徹底的に焼却処分された。日本政府の朝鮮人徴用の実態は、公式には記録が無くなり、その事実が日本の歴史から抹消されたのである。

 私のこの記録は、40年近い過去の事実を、現在まだ生きている当時の部下たち数人と何回か語りあって思い出したり、現地から亡妻や親戚友人たちへ、労務報国精神を誇示して書き送っていた私の手紙を回収したりして、記憶を確かめながら書いたものであるが、「戦争犯罪人」の私が老後になって、いまさら気休めの懺悔をするためではない。戦後生まれの日本人青少年・少女たちへ、私たち日本人が朝鮮人を「ドレイ」にしていた歴史的事実の一端を書き残して、日本人が「文明人」となるための反省の資料にしてもらいたいのである。

 

(当時の日本人の実態を書き残すために、私たち日本人が朝鮮民族にたいして使っていた差別用語を本文中にあえて使用する。排他的な私たち日本人の愚劣な国民性について考えて頂きたい。)

 

 

 

 

付録1

 

私は朝鮮人慰安婦を徴用した

 

     「いま朝鮮の統一と在日はーー6.18日本と朝鮮の戦前

     ・戦後を考える文化の夕べ」大阪府立ピロティホ-ルでの

     講演。1982年6月29日付 ”The People”紙より転載。

 

 吉田清治でございます。私は今日、新幹線で東京からこの会場へ参りましたが、戦後37年も経ってこのような会が、つまり日本人と朝鮮人の戦前・戦後を考える会、そういう会が開かれることに深いざんきに耐えません。日韓合併が終わって37年も経って今の日本の中で在日朝鮮人65万人の方々が今日のこの差別、行政差別だけではありません。日本人の社会的市民生活におけるひどい差別の中で毎日暮らしているのだと思います。

 このような現状を見るにつけ、36年間に及ぶ日韓合併における敗戦前の数年間、つまり第二次世界大戦中、日本が朝鮮半島に対して行った行為、それを実行した私をはじめ私の周辺の者はその事実を公表しなければならないと考えるのです。朝鮮総督府の関係者、日本の警察関係者、これは100万を超える人々が、直接に朝鮮人に対し残虐な行為を行っていたのだと、そのことを昭和20年8月15日以降に語ることを誰一人しなかったのです。そして日本政府、日本の行政機関はすべての朝鮮人強制連行の記録および朝鮮総督府あるいは旧内務省関係の朝鮮人への迫害、この歴史的事実を、公文書記録をすべて焼却処分にしたため、私自身も山口県下関地区の強制連行の記録を、当時の下関警察特高係の署員を指揮して完全焼却致しました。その責任者のひとりでもあるのです。そして戦後30年、私はその事実を隠し名前まで変えて隠れていました。

 数年前、やっと私は一冊の本「朝鮮人慰安婦と日本人」(新人物往来社)を出し、各地でお話したり、テレビで自分たちが行った朝鮮民族に対する残虐行為の事実を少しずつ語りはじめたのです。ほかに呼びかけましたが、現在のところ誰も応じません。今、日本人で強制連行の加害者としての自分が行った事実についてこれを語る日本人はひとりもいないのです。在日朝鮮人65万人が今日、日本で苦しい生活をなさっておられるのは、私たちがそのことを語らなかったため、差別の中で暮らしておられるのです。

 市民生活の中における差別の一旦を端的にあらわすのは、在日朝鮮人の小中学生の子供さんが、学校で自分の本名を名乗って通学できない、常に日本の、日本人社会における在日朝鮮人への差別が子供の社会へまで及んでいる、その最大の根本の責任は私にあります。敗戦前に強制連行を行ったこの日本人の担当者に最も大きな責任があります。

 私は今日、15分から20分の時間をいただきましたので、強制連行について申し上げている時間はありません。私は昭和17年から敗戦までの約3年間、数千人の朝鮮民族を強制連行しました。その中には千人近い慰安婦を強制連行致しました。

 その山口県における下関地区の最高責任者でございます。時間がありませんので、当時の私たち労務行政を行っていた者が、どういうやり方で朝鮮人の強制連行をしたか、慰安婦の徴用をどのように行ったか、この事実を15分間、いただいた時間内でお話したいと思います。

 正確を期するために、私は自分が作った記録をみながらお話をしていきたいと思います。

 昭和18年5月15日に私は山口県警察部に呼ばれまして早朝に下関を発ち山口県庁に参りました。当時山口県から九州地区全域を担当している西武軍司令部というのがございました。その西武軍の司令部付の中尉が来ておりまして、私も相席させられましたが、県の幹部に次の命令が下ったのであります。

 九州地区と山口県を含むのですが、2000人の陸軍慰安婦を徴用し、そして昭和18年の5月31日までに供出しろという軍命令でした。山口県に対する命令書が西部軍司令官から当時山口県労務報告会会長を兼任した県知事に提出され、この県知事から、下関地区の支部長は下関警察署長ですが、署長に命が下りました。しかし警察署長が直接強制連行の業務をやるわけでなく、支部の事務局の実態は私が動員部長で職員40名。その下関支部に下った命令の、これは私が幸いに当時しゃべったか見せたかしたので、家内の日記の中にそれがありました。読んでみますと次の内容です。

 

一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊200人。年齢18才以上30才未満。既婚者も可。但し妊婦   

  を除く。

一、身体強健なる者。医師の身体検査、特に性病の検診を行うこと。

一、期間一年。志願により更新することを得。

一、給料、毎月金30円也。支度金として前渡金20円也。

  勤務地、中支方面。

  動員地区、朝鮮全羅南道済州(チョンラナムド・チェチュ)島。 

  派遣日時、昭和18年5月31日正午。

  集合場所、西部軍第74部隊内。

 

 当時、済州島は陸軍部隊によって軍政が敷かれていました。もともと日韓併合中の済州島は行政官はいませんで、警察署長が行政の最高責任者でした。警察署がこれは済州島の済州という中心の街にありましたが、この済州警察署が税金の徴収から出生その他死亡の事務手続まですべて行政を行っておりました。私が参りました昭和18年にはすでに「旅団編成」の部隊が来ておりまして、その「編成」はもちろん軍事機密で当時の私でも知ることはできませんでした。日本から済州島へは、大阪から1000トン程度の定期船が二隻交互に就航していて、下関に寄港してましたが、私はそれに乗って参りました。私たちは徴用隊と称していましたが、その徴用隊は隊長が私で九人の部下を連れて十人で済州島へ参りました。そして到着した日に陸軍部隊の大尉からいろいろ便宜を受け、軍用トラック二台、それから軍曹以下10名の護衛兵をつける、これは慰安婦を連行する場合に当然なことですが、島民が危害を加えるというわけです。戦時中ですから完全武装の歩兵軍曹以下10名が、私たち10名と同行しました。

 そして一週間にわたって予備人員も入れて205名の徴用をしました。その徴用場所は済州島の海岸線を幹線道路が一周していますが、その幹線道路に沿って東に進み、あるいは西に進み三日間、済州を中心にして徴用を行い、その後は西帰浦(ソキボ)という南側の済州島第二の町ですが、そこで海女を徴用しました。

 最初の徴用は済州から東の方へ軍用トラック二台で進みまして、20分か30分走ると、幹線道路の側に小さな村がみえました。二台の戦闘の車の助手席に、私と軍曹が座っておりましたが、その部落をまず徴用場所に選んで部落のすぐ前にトラックを停めて、10人の徴用隊と10人の武装兵が一緒にその部落に入っていきました。

 ご承知のように済州島の部落は非常にみじめな部落です。その小さな部落に入りましたらどの家も人がいません。これは時間的にみんな働きに出て行っていたと思いました。済州島は部落の家の周りに石垣が建てられています。これは、風を防ぐためと家畜の侵入を防ぐためにあるのですが、その石垣の上によじ登って部落内を偵察しましたら、すぐ近くの割合大きな家の中に20人ばかり女が集まって何か作業をしていました。双眼鏡で確かめますと朝鮮帽子ですね、あれは馬のしっぽの毛で作るのですが、伝統的な朝鮮人の帽子なのです。その帽子を家内作業で作っておりました。すぐ私は、軍曹を通じて兵隊と徴用隊の隊員に命じてそこへ突入させました。これは済州島における最初の徴用でしたので、みんな様子がわからずいきなり飛び込んでいって、30歳未満と思える女に飛びかかって腕をねじあげて引きずり出したのです。

 私は石垣の上から双眼鏡で見ておりました。もちろん、すさまじい悲鳴や絶叫が聞こえて参りました。そしてそれを聞きつけたのか、どこから出てきたのか、半裸体の男性たち、これはみな漁師たちですが、その男性たちが数十人集まってその家に跳び込んできました。兵隊はすぐ銃剣を突きつけました。兵隊は銃剣を突きつけただけではありません。現在とは違いまして、叫んで反抗してくれば本気で突くつもりでその男たちの方へ向かっていきました。そして徴用隊員たちは、若い女性を手をねじあげ引きずるようにしてトラックの前に連行しました。泣き叫び、部落中に非常な叫び声と悲鳴があがって、男性たちも大声でわめいていました。兵隊が銃剣で周りをとり囲み、八人の女性をひきずってトラックの近くまで連れてきました。ところが、トラックを見て女性たちは命がけで暴れ叫びました。手を振り廻しよろめいたりして結局何人かは地面にころがり、隊員たちはこれを捕えようとして地面に折り重なり、女性たちは命がけで抵抗しました。しかし、これも二~三分で結局手をねじあげられて、トラックの中に入れられてしまいました。

 そのトラックの幌の中に、みんなを押し込むとともに二台のトラックに隊員が乗って、すぐに出発しました。そして十分ぐらい経ってから、私の横に坐っていた軍曹が私に次のことを言いました。

 「徴用の警備は兵隊たちが役得を当てにしています。この先で30分小休止して、兵隊たちを遊ばせてやります。」そして軍用トラックは幹線道路から横に入り、道のない草原を通ってちょうど岩山の裏側の幹線道路から見えない地点にトラックを停めました。トラックから隊員たちが跳び下りて来ると、軍曹の命令で兵隊たちは銃を組んで立て、それが終わると、同時に九人の兵隊たちは八人の女性が乗った幌の中へ突進しました。

 その間、幌の中から人間の声とは思えないような悲鳴が聞こえて参りました。しかしそれも一分か二分で終わりました。約30分経つと、兵隊たちは意気揚々としてトラックの幌の中から出てきました。

 つまり、済州からわずか30分の距離にある非常に近い部落、その部落で朝鮮帽子を編んでいた20人ばかりの部落民の中の若い女性八人が私の命令で慰安婦にさせられるために連行され、そして10分後には日本陸軍部隊の兵隊たちによって、慰安婦にさせられたのであります。

 トラックはそれから約1時間ほど走りまして、済州島の東側の町、そこは漁業が盛んで貝細工の貝ボタンを作っていましたが、製品は全部当時の陸軍納めで、その工場がその日の慰安婦徴用の目的地でありました。

 長い石塀にかこまれたかなり大きな工場が建っていて、そこの100人ぐらい島民の女性が働いていました。私たちは、私以下九人の徴用隊員だけで連行することにして、銃剣を持った軍曹以下10人の兵隊に警備をしてもらいました。隊員たちは徴用に馴れていますので、まず工場の事務室に入り、責任者を連れて中に入って、そこで徴用しました。この時もみな隊員たちは木剣をもっていて、打ちのめして連行しました。

 もっとはっきりご説明したいのですが時間がございません。しかし、そういう行為が行われていたことは日本の歴史からは今消えております。私は今後生命のあるかぎりこの事実を本に書いたりお話したりするつもりです。それは私が懺悔(ざんげ)することではありません。この年になって戦争犯罪人の私がいまさら気休めの懺悔するためではありません。ただ私一人でもそのことを書き残しておけば、何十年か先に私たち日本人の子孫が、日韓併合中の日本人がざんきの涙にむせびながら反省していた、せめて一人でもそういう人間がいたということを知ってくれれば先祖に対して絶望しないだろう、そんなことを思って証言しているのです。