平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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③2才の子供が・・・

2才くらいの子供がマスクを着けていた。今ではもう見慣れてしまった光景だが、その中でも驚いたことがあった。ノーマスクの私を見て、視線を避ける。そればかりか、自分の着けているマスクを触り、きちんと着けられるように直している。これは、ノーマスクの私と出会った大人が、時々、マスクの位置を修正して、きっちり顔に密着するようにする行動とそっくりだった。

 

もう一つ、写真画像で最近観たものとして、小学生低学年くらいの子供が数人、写真を見せられていたものがあった。2枚の写真。同じ大人の男性でノーマスク、とマスクを着けた姿を二人見せて、どちらが怪しそうかという問いに、確かほぼ全員がノーマスクの男性が怪しいと答えていた。すでに、ノーマスクの人はむしろ怪しい人だという認識になっている。

 

2年以上の殆どの人がマスク姿となってしまった今、表情を見ることのできないマスク姿が安心できる、ノーマスクの人は怪しい存在・・・そういった印象が普通になってしまった世の中となっている。奇妙だがこれは大変由々しき事態だと言える。

 

子供たちが、人間の表情を知ることができず、またマスクを着けた姿で安心感を得るという異常な状況も生じている。

 

既に、2年間マスクを着けるということを続けて、大人も子供も、マスクを外すという発想そのものが考えつかなくなってしまっているという現実もある。実際に聞いてみたことがある。マスクが感染症防止の効果がない、PCR検査も意味がない、コロナワクチンも打ってはいけない、ということを資料を渡して伝えた方だ。

 

幸い理解され、コロナワクチンは打っておられない。PCR検査については聞いていない。久しぶりにお会いしたので、思い切ってマスクを外してみられませんか、と問うた所、もう外すことができない、という。正直に言って、マスクで顔を隠し続けることに慣れ過ぎ、マスクを外すこと自体が何かしらすごく大仰なことをするイメージになってしまっているらしい。怖くて外せないと。完全にマスクと顔とが一体化してしまっている。また顔をある意味いつも隠せる、ということで一種の安心感も生まれていると。

 

恐ろしい話だ。私自身はもう2年以上、ノーマスクを続け、それが当たり前になっている。2年以上マスク装着を続けている方とは、もう感覚がずれすぎてしまっている。

 

未だに政府はマスクを外す外さないをぐずぐず言っているが、これは明らかに、ためにする無駄話。政府はマスクを着けようが着けまいがどうでもいいのだろう。彼らの求めているのは憲法改正、いや改悪、それも緊急事態条項を何としても手に入れたい。そうすればどんなことでも出来る、独裁の方向へ持って行ける。それまで、たくさんのスピンがあればいい。マスクもスピンとして使いたい。注目を憲法改正からそらしたい。

 

間違っても、憲法改正案の内容を知られたくない。何故なら、およそ考えられないような内容だから。基本的人権は丸ごと削除、拷問は絶対に認めないの「絶対に」を削除、緊急事態条項という政府独裁認可条項を新設。政府もメディアも、改正案の周知を絶対にしない。説明することができないから。なぜならずっと、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つを必ず守る、と党是に掲げているから。

 

憲法がこの夏、改正されるということも知らされてないし、改正案がどういう内容かも知らされてない。殆どの人は憲法改正ということについて、全く知らない。政府は、国民が憲法改正について全く知らないままでいてほしいから、マスクを外す外さないでアレコレ騒いでいる。

 

マイク街宣でも、できるだけ緊急事態条項のことを知らせようと努めているが、全くと言ってよいほど、誰も聞かないし関心が無い。

 

本当に危ない状況になってきている。徴兵制も簡単に決まる。国民市民の人権と平和は風前の灯火だ。