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「女性国際戦犯法廷の全記録 1」内にある情報の書き起こし記録

元「従軍慰安婦」に関する「女性国際戦犯法廷の全記録 1」に記載された有用な情報を抜粋し、書き起こしをしました。一読いただければ幸甚です。ご自身の眼と頭で、ご自身の第六感でこの問題の真実を見抜かれると思います。書き起こしを以下に記します。私自身の記録ともなります。

 

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女性国際戦犯法廷の全記録 1  201p ~ 204p

 

日本の国家責任について  川口和子検事(による証言記録)

 

 国家責任について専門家証言をいただき、証拠として提出いたします。

 日本国政府の国家責任と言いましても、戦争当時、軍や政府の高官たちが、慰安所制度に深く関与してきたということに基づく責任については、これまでにもさまざまな証拠や専門家証人によって立証されてきましたし、また、1993年に日本の政府自体が、関与を認める文書を発表しておりますので、それを書面で証拠として提出することといたしまして、ここでは、日本国政府や政府高官たちの戦後のこの問題への対応についての証拠を説明したいと思います。

 いまディスプレイに映っておりますのは、山崎財務大臣時代を語る座談会という、1965年9月6日に行われた座談会の内容を載せた本からの抜粋です。この本の中で終戦当時、内務省の財政課事務官という立場であり、戦後は自治省の財政局長、これはこの発言が収録されている当時ですが、後に衆議院議員や法務大臣になった奥野誠亮という政治家が、1945年8月15日の何日か前に、終戦処理の方針を決めなければいけないということになり、公文書は焼却するといった事柄が決定になったこと、そしてこのことが、陸軍は陸軍系統を通じて、海軍は海軍の系統を通じて、上から下に通達するということになった、これは表向きには出せないことである、云々と書かれています。

 同じ奥野誠亮は、1970年9月28日にもやはりこの戦後の公文書の湮滅について、ある座談会で発言しておりまして、地方に出した指令は数項目に及んでいたが、覚えていたのは公文書を焼却せよということ、軍の持っている物資はすぐ民間に渡してしまえ、その暇がなかったら市町村へ、さらにその暇がなかったら府や県へ渡せということだったというようなことを言っています。さらにこの座談会のなかで、婦女子、つまり女性たちを逃がすかどうかということを決定せず、地方の情勢で然るべくということだったと発言したと記録されています。

 このことは、日本軍が、要はその行った先々で地元の女性たちを強かんしたということを、この奥野を含む当時の政府の高官たちは知っていて、それと同じ事が戦争に敗れた日本に連合国の人たちが来ることによって起きるのではないかと考えたことを示しています。

 なお、終戦直後の日本政府による組織的証拠湮滅の実態については、日本側提出証拠の証拠番号35番の吉田裕教授による意見書に書かれておりますし、単に日本政府が公文書を湮滅しただけでなく、防衛庁や警察、厚生省、労働省、大蔵省などが、この「慰安婦」問題を含む戦争犯罪について、米国から後に返された資料も含めて膨大な資料を今でも持っているにもかかわらずこれを公開しない、このことのために今なお十分な真相究明ができないということについては、日本側提出証拠の39番の荒井信一教授の意見書に詳しく書かれています。

 次に、左に映っておりますのは、1996年6月4日頃、当時参議院議員だった政治家{板垣正}が、韓国からの「慰安婦」被害者に対して、お金はもらっていないのか、本当にもらっていないのかと、大変しつこく尋ねました。これと同じ日、先ほど出てきた奥野誠亮という政治家が、「慰安婦」は商行為、つまりビジネスに参加した人たちで、強制はなかったというような発言をして、「慰安婦」問題という歴史的な事実を否認していることが報じられている新聞記事です。

 なお、この二つの発言を含めて、日本の政治家による主な、「慰安婦」問題を否認したり歪曲したりする発言については、日本側提出証拠の41番に、代表的なものを載せています。

 次は、インドネシアからの証拠番号13番で提出されております中曽根康弘元首相の回顧録であります。この「終わりなき海軍」という本に収録された「22才で3000人の総指揮官」というエッセイの中で、中曽根氏は敗戦当時は海軍の主計大尉であったわけですが、1941年末から1942年始め頃に中曽根氏が属する船団が、インドネシアのバリクババンというところに上陸した直後のこととして、「3000人からの大部隊だ、やがて原住民の女を襲うものや、ばくちにふけるものも出てきた。そんな彼らのために私は苦心して慰安所をつくってやったこともある」というふうに、自ら慰安所作りへの関与を告白しております。しかし中曽根氏は後に首相になって以降は、多数の政治家がこの「慰安婦」、慰安所制度の存在を否認する発言、歪曲する発言を繰り返していることに対して、沈黙を続けたのであります。

 次へいってください。これは、まず右側が、1998年10月9日にフィリピンの戦時性暴力被害者が裁判で請求を棄却されたという記事、それから左側は在日韓国人の宋神道さんという「慰安婦」被害者が1999年10月1日に敗訴判決を受けたという新聞記事であります。この二つの裁判はいずれも、今日から1週間ないし10日ぐらい前に、東京高等裁判所での第二審判決においても、原告の請求を棄却するという判決が出されています。日本の裁判所、日本の国家権力がつくった裁判所においては、これまでに9件の戦時性暴力被害者による謝罪や損害賠償を請求する裁判が行われていますが、有名ないわゆる下関判決を除いては、いずれもこれまで出た判決では、原告つまり被害者たちによる請求が棄却されております。またこの下関判決も、当時の加害行為を理由に損害賠償を認めたものではなくて、戦後に補償立法を行ってこなかったという立法不作為を理由として、原告一人あたり30万円という少額の損害賠償を認めたに過ぎないものであります。このような、日本の裁判所におけるこの種の裁判の実態については、後にアミカス・キュリーとして、鈴木五十三弁護士が宣誓供述書を当法廷に提出します。

 次へいってください。今映っておりますのは、「女性のためのアジア平和国民基金」、いわゆる「国民基金」について、各被害国で説明するために出された文書の抜粋であります。このパンフレットの中で日本国政府は、「国民基金」の性質について、「何よりも大切なのはひとりでも多くの日本国民が犠牲者の方々の苦悩を受け止め、心からの償いの気持ちを示さなければいけない」とか、あるいは、この償い金と一緒に渡される総理大臣の手紙の文言として、「我が国としては道義的な責任を痛感しつつ」というようなことを書いて、言い方を変えれば、法的責任を否認しているのであります。また、償い金の給付の対象が「韓国、フィリピン、台湾の犠牲者に対し」というふうになっていて、アジア全域に「慰安婦」の被害者が多数いるにもかかわらずこの三カ国についてだけ、償い金の給付を行うということを表明しているということで、「国民基金」という民間の基金をつくって償い金を渡すという対応が、道義的な責任を果たすために適切な対応とは認められません。そのことから、今スライドに映っていますように被害各国ではこの民間基金に対して強い反対の声が挙がりました。そして、このことを受けてでしょうか、この民間基金への募金の呼びかけ人であった三木睦子元首相夫人が、「そもそも財界のお金に頼るという考え方が間違っていると思います、その考え方には、謝罪はしなくても金だけでも出せばいいんだという思いが見えてくるからです」というような談話を発表して呼びかけ人を辞任したということが報じられています。なお、この民間基金の問題性につきましては、日本側提出証拠の証拠番号40番で、戸塚悦朗弁護士が詳しく論じております。

 次にいってください。これは、今年2000年の9月10日前後に一斉に報じられた、日本の中学校で使われる歴史教科書から、当時日本政府が加害者であったという視点が後退する動きがあるという新聞記事であります。2002年、二年後から使われる中学校の「教科書」検定、文部省「現・文部科学省」による検定作業の中で、これまで七社の教科書すべて「慰安婦」という言葉が載っていたのに対して、今回は「慰安婦」という言葉を使う会社はわずか一社。「慰安婦の実態について何らかの形で説明するという形を含めても、三社しかなくなってしまったという危険な動きを示しています。このような教科書会社の自主規制に対して、日本国政府が文部省を通じて、きちんと「慰安婦」の被害の事実は子どもたちに教えていかなければいけないという立場で指導しないとしたら、そのこと自体が日本国政府の責任を果たしていないことを示すということになると思います。

 次のスライドは、1940年9月19日に、当時陸軍省の副官であった川原直一氏が、陸軍省副官の立場で、関係する陸軍部隊へ通達した公文書であります。この公文書の中では戦争が長引くのに伴って、軍記が緩み、具体的には略奪、強かん、放火、不慮の惨殺など皇軍たる本質に反する幾多の犯行が多数発生しているということを認めております。その上で、この川原という陸軍省の副官は、軍幹部が兵士へちゃんと教育指導をしなさい、あるいは慰安所の監督責任を強化しなさいということを指示しています。つまり、陸軍省は遅くともこの文書が作られた1940年の9月19日までには、強かん防止のためにと設置された慰安所が、実際には強かん防止には役立たなかったことを認識していたということです。しかしそれにもかかわらず、強かんが少しも少なくならなかったということの関係性について、日本側提出証拠34番で、笠原十九司教授が詳しく論じております。なお、今スライドに出ている文書自体は日本側提出証拠43番としても提出されています。以上です。

 

マクドナルド判事:まだすべて正確にはリストに入っておりませんが、証拠品として受け入れたいと思います。それから、文書の湮滅に関する本の題名は何だったでしょうか。それはあとで証拠品として出して頂ければ結構ですが。

川口検事:山崎大臣時代を語る座談会という、自治大学校資料編集室が作成した座談会の記録です。つまり、内務大臣が山崎氏だった時代のことを語る座談会で、日本が敗戦した直後の時代のことです。

マクドナルド判事:それも証拠品としてリストに入っていますか。

川口検事:確認して、まだ提出されていないようであれば、その本を証拠として提出いたします。

マクドナルド判事:提出されれば、証拠品として受け入れます。ありがとうございました。