平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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マイク街宣で 中学生が・・・

時々、「新型コロナウィルスとされるもの」による騒動に関して、マスクやPCR、ワクチンなどの話を、街宣で行う。最初の頃は、一体何をどうやって話せばよいか分からない、少し話した後、固まってしまい、次に何の言葉を出せばよいか分からない、そんな状態だった。でも、習うより慣れろとはよく言ったもの、何度か繰り返し、話し続ける内に、段々と話ができるようになった。原稿を読むのでなく、適当にテーマを決め、アドリブも加えながら何とか話ができるようになった。まだまだ伝わりにくいのは、変わらない。

 

「新型コロナウィルス」とされるものについてのマイク街宣、道を歩いている人の殆どは、私の発信に何の関心も持たない。おそらく、政府や自治体、テレビや新聞、あるいは有名な専門家たちなどの言うことと、丸で正反対のことを言っている私のことは、陰謀論」の犠牲になった哀れな人、みたいな感覚なのだろう。私から言えば、それは、とてつもない洗脳が行き渡ってしまったという解釈になるのだが、殆どの人は、私がアタマオカシイ、と見ることになる。

 

しかし、最近はほんの少しずつだが、同調する、或いは応援するような人が出てきてる。最近は特に、マスクについての話題を多く取り上げているのだが、マスクについては、自分もできれば外したいと考える人たちが増えてきているように思う。このとんでもない酷暑の夏、コロナ三回目の夏、まだマスクを着けている、ということで、本当にいい加減にしてくれという思いもあるのだろう。ただ、マスクで感染予防というお題目を政府は全く止めないので、殆どの人がマスクを着けている。はっきり言えること、マスクで何の感染予防もできない、意味が無い、それどころか体にとてつもなく有害。ところがこれが全く伝わらない。理由を説明してもだめ、第一ほとんど誰も聞こうとしない。なにしろ私がトンデモ人間、アタマオカシイ人間だということになってしまっているから。

 

だが、つい最近のマイク街宣で、嬉しいことがあった。マスクの無意味さとその害について少し話していたのだが、後ろの方から「オー、オー、オー」というかけ声のような声が聞こえてきた。おや、と思って見ると、中学生(二年生くらい?)が自転車に乗りながらニコニコしながら「オー、オー、オー」と右拳を振り上げながら言っている。私のマイク街宣を応援しているようだ。むろん、彼はマスクを着けていない。

 

おそらく、学校ではマスクを着けさせられていると思う。でも、外では着けないようにしているのかもしれない。私のマイク街宣に通りかかったとき、マスクは必要無い、無意味、有害、というような話が聞こえてきて、嬉しくなったのかもしれない。自分の考えを、感覚を理解する人がここにいた、そういう思いだったのかもしれない。数少ない協賛者に嬉しくなって「オー、オー、オー」となったのだろうと思う。

 

私から「ありがとう、どうもありがとう。がんばってね。他のみんなにも言ってね。」と声をかけた。彼はずっと右拳を突き上げながら、オー、オー、オーと叫び続けてくれていた。

 

マイク街宣をするとこんな楽しいことと出会える。感覚と感覚の出会いがある。こうした喜びもあるので、マイク街宣は止められない。最近は、私の発信に対して、ジーッと私に注目しながら聞いている人もほんの少しずつ出てきている。まだまだだが。

 

この活動をすることによって、どれほどの効果が上がるかは分からない。殆ど何の影響も与えないかもしれない。しかし、何もしないよりは遙かにいい。今現在、人々を、騙されている人々を助けなければいけない、真実を伝えなければいけないという「義」があるのだが、その義に気づいているのに知らないふりはできない。その義を見て、何も為さざるは勇気が無いのと同じ。

 

義を見て為さざるは勇無きなり。

 

いや全くこの通りだなと思ってる。