平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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②朝日新聞の訂正記事と吉田清治証言

おしえて! ゲンさん! ブログ記事から

 

在野民平(ありのたみへい)として書かれている。ペンネームだそうだ。時々、週刊金曜日に企画の提案をしていたとのこと。それ以上の詳しいことは分からない。原発の問題から歴史問題まで様々に研究し、発信をされていたらしい。その中で、吉田清治に関連する項目があった。めったにここまで詳しい客観的な言及はない。参考資料として大変貴重だと感じる。原稿を保存させていただく。在野民平は既に故人。2021年5月13日にに病没されている。ご存命なら是非とも交流させていただきかった。大変、残念だ。文言のデコボコは修正方法が分からない。かなり長い記録になるが、取り急ぎ、以下に記録する。

 

 

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朝日新聞の訂正記事と吉田清治証言

 

更新日時:2020/07/06 14:31

始めに

2014年の8月に、朝日新聞社が従軍慰安婦に関する資料の

取り消しと謝罪に関する記事を特集しました。

内容は過去に書いた吉田清治氏の証言記録に関する記事に関してです。

この証言記録は確証が得られない内容だった為、

当初から信憑性が疑われ、歴史資料としては採用されませんでした。

しかし当時は、朝日新聞だけではなく多くの新聞社が吉田証言を取り上げていました。

 

産経新聞  

199391日 大阪本社版・夕刊「人権考」欄 要点

最大の人権侵害である戦争を「証言者たち」とともに考え、問い直す

加害 終わらぬ謝罪行脚(吉田氏が元慰安婦の金学順さんに謝罪している写真を掲載)

韓国・済州島で約千人以上の女性を従軍慰安婦に連行したことを明らかにした「証言者」

証言の信ぴょう性に疑問をとなえる声があがり始めた

被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったとはいえない

吉田さんが証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ

注:産経のこの連載は優れた報道として、

  第1回坂田記念ジャ-ナリズム賞を受賞しています。  

  このように報道していた産経新聞が、自分が訂正せず、

  朝日新聞を徹底攻撃しているのは異常なことです。

 

最初から積極的に報道していた朝日新聞としては、

今回、内容の不正確さを理由に改めてこの記事を取り消す記事を書いたのです。

この訂正記事を巡って朝日新聞に対する一斉非難が始まりました。

 

非難の内容は

 *慰安婦の強制連行は嘘だったのに、真実のように報道した。

 *その後の河野官房長談話に影響を与えたので、河野談話そのものを取り消せ!

 *慰安婦のことは日本でも韓国では問題になっていなかったのに、

  朝日新聞のせいで騒ぐようになった。

 *国際社会に慰安婦の嘘を信じ込ませた。

 *日本の威信を失墜させた。

 *もともと慰安婦なるものは存在しなかった。

以上のような内容です。

 

2015126日には「朝日新聞を糾す国民会議」が朝日新聞社を提訴しました。

原告数は25千人以上とされ、

請求内容は「謝罪広告の掲載」「11万円の支払い」です。

原告の代表は渡部昇一上智大学名誉教授です。

 

この問題はとても大切なことなので、少し細かく書きます。

 

このホ-ムペ-ジ「軍による性暴力」の内容と

かなり重なる部分がありますがご承知下さい。

吉田清治証言を取り上げる前に、

従軍慰安婦の問題が戦後どのようにして展開して行ったのか、

改めておさらいします。

最初は東京裁判からです。

 

更新日時:2020/07/06 14:42

取り上げられなかった慰安婦問題

日本の戦争犯罪者に対する裁判は、A級裁判として主要戦争犯罪人、

BC級裁判として通常の戦争犯罪人が裁かれました。

中華人民共和国はABC級裁判に属さず独自に軍事法廷を開きました。

A級裁判は東京で開かれた極東国際軍事裁判(通称東京裁判)

BC級はアジア各地で開かれました。

そのどの裁判でも慰安婦の事は

オランダのBC級スマラン事件、

桂林の事件などわずかしか取り上げられていません。

 

スマラン事件 

 インドネシアで日本軍の捕虜になった

 オランダ人女性が強制的に慰安婦にさせられた事件です。

  オランダがインドネシアで開いたBC級裁判で、

  11人の軍人軍属が死刑を含む有罪判決を受けました。

  スマラン事件については後で書きます。

 

東京裁判では、戦争犯罪の罪名は沢山ありますが、

強姦は殺人、掠奪、強盗と一緒に取り上げられています。

その為多くの訴えや証言がありながら、

強姦罪としては裁かれませんでした。

そこで何故強姦や慰安婦のことが最近まで問題にならなかったのか理由を考えてみました。

 

考えられる理由

1.戦争をするのも男、裁くのも男、兵士(男)は戦争が終わって、

 勝てば英雄として帰国し、負けても死者は神として国家で祭られ、

 生きていれば一生年金(恩給)をもらえます。

 このような男中心の社会では

 「戦争に強姦や売春はつきもの」と言う考え方が万国共通の意識だったのです。

 だから女性に対する人権侵害だとする意識がありませんでした。

 慰安婦に対する訊問でも単に売春婦として扱われています。

VAWWNET Japan(「戦争と女性への暴力」日本ネットワ-ク)

   1999815日と2000423日に

   靖国神社に集まった元軍人たちに「慰安婦」について

   アンケ-ト調査をしました。

   それによると、3分の2以上が

   「慰安所制度は必要」「慰安婦に謝罪・補償の必要はない」と、答えたそうです。

   そこには戦争犯罪、性奴隷制、女性への人権侵害という意識は見られません。

2.裁くほうも、裁かれるほうも男ですから、戦争で人を殺したことは堂々と言えます。

 しかし強姦や慰安所へ行く事はみっともなくて口に出しづらい面があり、

 ぼかして済ませてしまう傾向があります。

3.強姦は陸軍刑法で厳しく罰せられていたので加害者からの証言がなかなか出ない。

4.日本軍が関連文書を徹底的に焼却し証拠隠滅を図った。

 しかしまだかなりの証拠文書が国に隠されていて非公開になっています。

 (少しずつは公開が始まっていて市民団体の調査が進んでいます。

 また国会議員でも超党派で取り上げられようとしています)

5.戦勝国の政治的思惑

 東京裁判では途中で朝鮮(慰安婦が一番多かった)

 台湾に関する事がウヤムヤになってしまいました。

 このことは恐らく日本の植民地政策を裁くと、

 連合国が自らの首を絞める事につながるので

 政治判断で避けたものと思われます。

6.アジアの被害国は、当面、戦乱で荒れた国土を再建し、

 経済復興を最優先にしなければなりませんでした。

 そのため、日本からいかに金を取るか、

 経済的に友好を保つかが目的で、

 慰安婦の問題もさることながら、

 国民個人の被害についても後回しにしていまいました。

 *20022月に田嶋陽子議員(当時)がインドネシアを訪問した時に、

  インドネシアのユスリル法務人権大臣は「インドネシアと日本の経済発展のためには

  過去の事よりも、日本との経済関係の未来のことの方が重要だ」と発言しています。

 *マレ-シアでも名乗り出た元慰安婦に対して、

  マレ-シア政府は政府間で決着済みで経済協力が大事だとして、

  元慰安婦の訴えを却下しています。

7.被害にあった女性は心や体の傷のため名乗り出られなかった。

 *「純潔を失えば女性として無価値」と言う意識に一生縛られ

 *たとえ強制とはいえ、売春したという罪悪感を持ち

 *生まれ故郷では汚い裏切り者と唾をかけられ

 *家族は「家の恥じ」と考え

 *社会は売春婦として蔑み

 

そして90年代に入って、やっと韓国の元慰安婦が証言を始め、

その後続々と証言者が現れるようになったのです。

つい最近1990年代の事です。

 

更新日時:2020/07/06 15:18

慰安婦問題の始まり

慰安婦問題が明るみに出た経過を簡単に整理してみます。

韓国内で慰安婦問題が表面化したのは1970年代ですが、

決して一部の人たちが言うように、知られていなかった訳ではありません。

韓国内の新聞には慰安婦のことが1945年ごろから書かれています。

このことを韓国・仁徳大学講師の心理学者「吉方べき」氏が

20149月に調査をしました。

週間金曜日第1035号(2015410日号)から引用し、整理します。

 

韓国の新聞に慰安婦や挺身隊のことが掲載された数

注:年の表記は1945年を45と表記します。

時期

朝鮮日報

 

東亜日報

 

中央日報

 

京郷新聞

 

合計

 

慰安婦

挺身隊

慰安婦

挺身隊

慰安婦

挺身隊

慰安婦

挺身隊

 

4549

0

1

0

1

 

 

0

1

3

5054

0

0

1

0

 

 

0

0

1

5559

0

0

0

1

 

 

0

1

2

6064

0

0

0

1

 

 

4

4

7

6569

0

0

1

4

0

1

2

5

10

7074

0

0

4

11

3

15

5

6

41

7579

1

1

4

4

3

6

4

12

30

8084

1

7

5

49

18

52

9

45

161

8589

0

4

4

33

2

11

2

15

68

9094

328

289

566

732

380

492

383

536

2825

注:合計数字が合っていませんが、

  各新聞の記事には慰安婦と挺身隊の両方が含まれていることが多く、

  細かい数はそれぞれですが合計は記事の数になっています。

  中央日報は1965922日の創刊です。

吉方氏が選んだ目立つ記事を書きます。

 

●1963814日 京郷新聞

 ・・・・年頃の乙女たちを戦場に連行し、慰安婦にしたのだ。・・・・

 どれほど多くの韓国の乙女が連行され、

 その後どうなったのか、知る人はいない・・・・

 

●1964323日 東亜日報 岡村昭彦氏の寄稿として

 ・・・・乗船した漁船の船長は次のように語る「大東亜戦争の時、

 韓国人の18歳から20歳までの乙女たちは、

 挺身隊という名目で連行され、

 結局は全てが軍隊の娼婦にされてしまったんですよ」

 私は顔を上げることができなかった。

 

●1965217日 京郷新聞 殉国先烈遺族会会長の寄稿

 未婚女性を挺身隊との名目で拉致動員し、慰安婦にした

 

1970年代に入ると日本人のキ-セン観光に対して、

韓国の女性たちが批判を始めました。

注:キ-セン(妓生)

  昔からあった高官の接待の時に働く、

日本で言えば芸者のような存在。

  場合によっては娼婦の役割も果たした。

  戦後その言葉だけが残り、

  買春目的の外国人特に日本人男性の観光に利用された。

批判の内容

 日本男性は、戦争中同胞の女性たちを女子挺身隊員として軍の力で狩り出し、

 それを反省せず、今度は金の力でキ-センの性を弄んでいる。

 

ところが韓国は当時独裁政権で、

日本とうまくやるために国際観光振興政策をとり、

あまり問題とはなりませんでした。

 注:女子挺身隊

   日本軍は工場労働者として朝鮮女性を狩り出すとき「女性挺身隊」という名称で、

   募集、詐欺募集、強制連行を行ないました。

   挺身隊という名目でありながら慰安婦にされたケ-スが多くありました。

 

1977年には日本でも、松井やよりさんたちが中心になってキ-セン観光反対運動が始まりました。

 

後ほど詳しく書く吉田清治氏の証言本が出たのが1977年ですので、

ここまでは吉田証言や朝日新聞報道以前になります。

1984年にシンガポ-ル特派員をしていた松井やよりさんは、

タイで韓国人の元慰安婦「盧寿福」さんにインタビュ-し、朝日新聞に掲載しました。

 

1988年、韓国梨花女子大学教授「尹貞玉」さんが

「日本軍の犠牲になった同時代の女性たちを

歴史の闇の中に埋もれさせる事は出来ない。

この問題に余生を捧げたい」と調査の為に来日、

アジア各地の取材を始めました。

19901月、韓国ハンギョレ新聞に尹貞玉さんが「挺身隊取材記」の連載を開始。

1990518日、盧泰愚大統領来日の機会に、

韓国の女性団体連合等が

「盧泰愚大統領の訪日及び挺身隊に対する女性界の立場」と題する共同声明を発表し、

日本政府に真相究明と謝罪、補償を求めました。

11月、韓国挺身隊問題協議会が結成される。

 

「公開書簡の内容」

日本政府に対しては

 1.日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること

 2.そのことについて公式に謝罪すること

 3.蛮行の全てを自ら明らかにすること

 4.犠牲となった人々のために慰霊碑を建てること

 5.生存者や遺族たちに補償すること

 6.こうした過ちを再び繰り返さないために、歴史教育の中でこの事実を語り続けること

韓国政府に対しては

 1.日本政府から謝罪を受け取ること

 2.韓国政府が積極的に真相解明をすること

 3.韓国に慰霊碑建て、日本政府から被害賠償を受け取り、

  生存者がいる場合にはその被害者に補償をすること

 4.不平等で屈辱的な外交関係を、自主平等外交に転換すること

 5.日本の韓国への歴史歪曲を訂正させ、自らも「慰安婦」の被害を歴史教育に明記すること

 

「挺身隊」

日本の植民地だった朝鮮半島ではありとあらゆる名目を考え出して朝鮮人を動員しました。

多く使われた名称は「○○挺身隊」でしょう。

  農村挺身隊

  内鮮一体挺身隊

  国語(日本語)挺身隊

  報道挺身隊・・・・

これらの挺身隊は男性中心で組織されましたが、1943年以降は女子の挺身隊も準備されました。

  婦人農業挺身隊

  特別女子青年挺身隊

  女子救護挺身隊

  女子勤労挺身隊

女子の場合はこれらの挺身隊とは別に処女供出と言う言葉が使われたり、

別の言葉も使われました。

  各種女子挺身隊

  慰問団

  歌劇団

  慰安婦募集(ずばりこのままの応募広告もありました)

このように色々な言葉が使われていたので、韓国では一括して、

日本軍の慰安婦問題を「挺身隊問題」と呼ぶ事が多くなっています。

 

「やっと明るみに」

199066日、国会、参院予算委員会で

労働省清水傳雄職業安定局長は次のように答弁しました。

戦前の国家総動員法に基づく徴用には従軍慰安婦は関係ない。

  慰安婦なるものは民間の業者が連れて歩いたというのが実体で、調査できかねる。

 

199012月、ソウルで開かれたアジア女性人権評議会主催の

「アジア女性人身売買問題会議」で、

韓国代表が「慰安婦問題」を報告。

アジア各地に知れ渡る。

 

●1991814日、日本政府だけではなく韓国政府も真相究明に消極的姿勢だったため、 

 韓国で元慰安婦として「金学順」さんが初めて名乗り出た。

 当時経験したことがあまりにも凄まじく、むごたらしくて、

 一生胸の中にしまったまま生きてきたけれど・・・・

 国民のみんなが過去を忘れたまま日本にしがみついているのを見ると、

 とても我慢ができない

 

その年12月には金学順さん等3名が

日本政府に謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴しました。

その直前の1128日、

金学順さんはNHK「ニュ-ス21」のインタビュ-に答えて次のように訴えました。

日本軍に踏みつけられ、一生を惨めに過ごしたことを訴えたかったのです。

 日本や韓国の若者たちに、日本が過去にやった事を知って欲しい

注:公式には金学順が最初に名乗り出たことになっていますが、

  実は19905月の韓国の雑誌「時代人物」に

  「恥辱と絶望の人生を克服し国の独立を願って生きる沈美子さん」という

  記事があった事が発見されました。

  伊藤孝司氏が20014月に発見したものです。

  つまり沈美子さんが金学順せんより早く名乗り出たということです。

 

19929月、TFFCW(フィリピンの女性人権擁護団体)のマスコミを使った呼びかけに対して、

マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんがフィリピンで最初の証言者として名乗り出ました。

その後、フィリピン、台湾、マレ-シア、インドネシア、中国、北朝鮮、オランダで、

元慰安婦たちが続々と名乗り出ました。

19936月、ウイ-ンで開かれた「国連世界人権会議」始めて取り上げらました。

19958月~9月、北京で開かれた第4回世界女性会議で行動綱領に取り上げられました。

以上のような経緯で慰安婦問題が闇の中から明るみに出てきたのです。

 

つまりこの問題が明るみに出たのはまだ最近、

1991年なのだということを覚えておいて欲しいと思います。

そしてその前1977年から吉田清治氏の証言は話題にはなっていました。

 

更新日時:2020/07/06 16:02

吉田清治証言

陸軍労務報国会下関支部動員部長だったとされる吉田清治氏が

「朝鮮人慰安婦と日本人(新人物往来社)」を刊行したのが1977年です。

その中で吉田氏は済州島で軍命により女性を強制連行したと告白しました。

その後1983年に済州島で200人の女性を拉致したとの証言集

「私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行」を三一書房から出版し、

自費で謝罪碑を建てる為に訪韓し土下座をして謝罪しました。

その年198311月に朝日新聞がこのことを紹介し他の新聞社も追従しました。

証言集が出された後、19923月、

歴史研究者秦郁彦氏が実地調査のため済州島に入り、

結果として証言には根拠がない、

つまり捏造であると産経新聞や正論に発表しています。

 

201485日と6日に朝日新聞がこの吉田証言は信憑性がなかったとして、

記事を取り消し、当時取り上げたことを謝罪しました。

その謝罪記事()が大波紋を起こし、

「河野談話」を見直すべきだ、

さらに慰安婦そのものがなかったなど、朝日新聞攻撃が始まったのです。

 

では吉田清治証言集の信憑性について真実はどうなのでしょうか?

歴史研究家の上杉聰氏が中央大学の吉見教授と共に吉田清治氏と対談しています。

その時の内容を書いた文章です。

 

上杉聰 歴史地理養育 199712月号

 ・・・・吉田氏がこれらの批判に反論していないのも事実です。

 私は、吉見義明・中央大学教授と共に直接お会いして(1993)

 反論を勧めたことがありますが、

 態度は変わりませんでした。

 その場で、私たちが様々な質問をしたところ、

 証言に決定的な矛盾は見当たりませんでした。

 ただし、時と場所が異なる事件を、

 出版社の要請に応じて一つにまとめたことを話してくれました。

 したがって、吉田証言は根拠のない嘘とは言えないまでも、

 「時と場所」という、歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、

 証言としては採用できないというのが私の結論ですし、

 吉見教授も同意見と思われます。

 国連人権委員会のクマラスワミ特別報告者に対して吉見氏が、

 その報告書の価値を守るため、吉田証言を採用しないよう手紙を送ったのはそのためでした。

 

それでは実際に上杉氏たちが吉田清治さんから聞き取りをした

内容はどのようなものでしょうか?

聞き取りは1993524日、千葉県我孫子市の喫茶店ポエムで行われました。

参加者は、吉田氏本人と上杉聰、吉見義明、川瀬俊治の3名です。

季刊戦争責任研究第33号の上杉論文から転用します。

聴き取り内容

質問:吉田さんが厳密な意味で自分が体験されたこと、   

   それプラス(出版社に言いわれて)色んな人たちの聴き取りも

 合わせたりしておられるわけですよね。

 そのあたりの区別をしていただければ・・・・

答え:わかりました・・・・20年ばかり前の話でしてね。

   日本の社会でそんなことが世間で一切忘れられているときで、

   在日朝鮮人・韓国人への差別ついて喋ったりなんかして、出版社が本を書けと・・・・

   筑摩書房とか、新人物往来社も来たんですね。

   それで「ぜひ」とか言い出してですね、ええ・・・・

     60歳になって、もう子供たち何とかなったから、

   個人的な生活面で勉強しようと思ったんですね・・・・

   そういう環境の時に書き始めて、それで、

   昔の連中が東京・横浜、何人もたくさんいましたからね。

   総務府の色んな連中とか、内務省とか、まあ色んな連中が、

   けっこう戦後、現役で各界におるわけですね。

   そういう連中、それを旧部下たちが、

   あの山口県の湯田温泉に年に1回ずつ行ってたら

   45日滞在すると次から次へと皆が集まって・・・・

   旧部下たちが、20年前だから、やはり皆懐かしいわけですよ。・・・・

   年寄りが同窓会みたいに集まって・・・・

質問:労務報国会の同窓会ですか?

答え:労務報国会というより、その(徴用)業務をやってた連中ですね。

   総督府とか警察とか、それからいろんな炭鉱関係で人事の責任者とか、

   軍需工場の人事担当の連中ですね。

   山口県から大阪府、いろんなところにいますね。

   ところがこの連中が当時恐れたのは・・・・

   満州から引き揚げるとき・・・・日本人はもう大変だったんですよね。

   1年ばかりの間にそれこそ野宿しながら逃げ回って、

   家族も虐殺にあったりしてるわけですよ。

   北朝鮮で警察官だった者は、みんな自分の任地からどこか他に行ってます。

   終戦と同時に逃げて。ところが警察署長とか逃げられないですね。

   家族も、ひどい例は、警察署長を素っ裸にしてですね、

   縄で一糸もまとわぬ姿で街中繰り出したり、

   そして警察官を見つけると、まあ半殺しにするなんかして、

   ソ連の軍の方に引渡して、真っ先にシベリア行きですね・・・・

   そのとき警察官だったということは顔も売れてますから・・・・

   そういう目にあっている私の関係した連中は、山口県に帰ってきた連中は、

   朝鮮人徴用にちょっとでも関わったということは死ぬまで喋らない。

質問:ああ~

答え:これは厳重なものですよ。だって・・・・

   戦後もう20年以上経っているんですよ、その時。

   みんな子どもやなんかちゃんと山口県で育てて、

   きちんと事業をやったり、なんかまあ社会基盤も持ってて・・・・

   山口県にはやはり朝鮮人がいる。その怖さ、その怖さで誰も証言しない。

   だからマスコミが、もと労務報国会の関係者を、

   なんぼ山口県中の地元新聞が徹底的に調査しても、

   誰も「いや関係ない」「そんな仕事してなかった」、全部隠蔽してるんですよ。

   その頃この本を(私が)出す。

   だから、推定できる書き方はできないわけですよ。

   これはあの人のことだと、わかるように書けないですよ。

   そういう態度がまず必要なんです。基本的に。

   今ならですね、「なぜ事実を書かないか」、

   事実を書けるわけがわけがない・・・・

   調べたら、あそこのおじいちゃんだと、すぐ特定できるんですよ。

   経歴調べたりなんかすればね。

   だから絶対に秘密にして本を出すために、

   そうした脚色しなけれりゃならんかった、いうことなんですよ。・・・・

   徴用に関わるもの・・・・そういう連中が(湯田温泉で)自然に、

   定期的に会ってたから、それで本を書くといって、

   23年ぐらい皆と共同で記録残そうじゃないかと(私が)言ったのに対して、

   自分たちの名前から(何から)一切わからんようにしろ、

   その代わり協力する、と言って数人の者が、

   色んな名目なんかで手紙を書いてくれたり-何回もですね、

   そういう連中が今生きている。

   それを証人で出せないんですよね。・・・・

以下省略

 

これらの内容を整理すると、吉田清治証言の内容は

合っているが、時間と場所は諸事情によって変えてあるということになります。

これを私たちがどう判断するかです。

少なくともいくら内容が正しくても歴史資料としては使えない、

つまり採用されないということになるでしょう。

 

その後上記上杉調査の影響でしょうか朝日新聞は方針を変えています。

199733日特集記事を組み、姿勢を転換し「真偽は確認できない」としました。

その後朝日新聞はこの吉田証言を取り上げていません。

これは201485日の記事の通りです。

1997年時点で真偽は確認できないとして終わったことを

なぜ再び謝罪のような記事を書いたのかは不明です。

会社内部の事情があったのかもしれませんが、

ジャ-ナリストとしてはむしろ謝罪するより、逆に慰安婦問題に関してきちんと検証

或いは再調査するべきではなかったのではないでしょうか。

 

更新日時:2020/07/06 16:14

当時の日本政府の対応

慰安婦の事が日本の国会で初めて取り上げられたのは先ほど述べたように、

199066日の参議院でした。

予算委員会で労働省清水傳雄職業安定局長は次のように答弁しました。

 

従軍慰安婦なるものにつきまして・・・・

 やはり民間の業者がそうした方々を軍と共に連れて歩いているとか、

 そういうふうな状況のようでございまして、

 こうした実体について、私どもとして調査して結果をだすことは、

 率直に申しまして出来かねると思っております。

 

つまり政府としては調査しないということです。

 

19905月、韓国の盧泰愚大統領の訪日時に、

韓国の市民団体からの要望書が出された事はすでに述べました。

日本政府は1965年の「日韓請求権協定」ですでに解決済みであるとの立場を取り、

韓国政府もそれに近いような考えでした。

しかし細かいところでは両国の解釈や見解は違っていました。

 

日本政府は1965年当時、議題に上がっていなかった「慰安婦問題」も解決済みと主張し、

 韓国政府は議題に上がっていなかった事は含まれていず、未解決であると主張しています。

 

その後世界的に、国際法上国家同士の協定があっても個人の請求権は残っているのではないか、

という解釈が出始めました。

日本ではシベリア抑留者のソ連に対する個人の請求権があるのかが話題になっていました。

その国会答弁が韓国の慰安婦問題と関連するようになります。

 

●1991326日 参議院内閣委員会 シベリア抑留者に対する質疑

 翫正敏議員

  ・・・・条約上、国が放棄をしても個々人がソ連政府に対して請求する権利はある、

  こういうふうに考えられますが、・・・・

  本人または遺族の人が個々に賃金を請求する

  権利はある、こういうことでいいですか。

 高島有終外務大臣官房審議官

  私ども繰り返し申し上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます

  請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び

  国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。

  したがいまして、ご指摘のように

  我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも

  放棄したものではないというふうに考えております。

 

この答弁が日韓問題にも影響を及ぼすようになりました。

●1991827日 参議院予算委員会での答弁

 柳井俊二外務省条約局長

  ・・・・先生ご承知のとおり、

  いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は

  最終かつ完全に解決したわけでございます。

  その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりました

  それぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、

  これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を

  相互に放棄したということでございます。

  したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを

  国内法的な意味で消滅させたというものではございません。

  日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、

  こういう意味でございます。

 

●1992226日 衆議院外務委員会での答弁

 柳井俊二外務省条約局長

  ・・・・それで、しからばその個人のいわゆる請求権というものを

  どう処理したかということになりますが、

  この協定におきましてはいわゆる外交保護権を放棄したということでございまして、

  韓国の方々について申し上げれば、

  韓国の方々が我が国に対して個人として

  そのような請求を提起するということまでは妨げていない。

  しかし、日韓両国間で外交的にこれを取り上げるということは、

  外交保護権を放棄しておりますからそれはできない、こういうことでございます。

  ・・・・その国内法によって消滅させていない

  請求権はしからば何かということになりますが、

  これはその個人が請求を提起する権利と言ってもいいと思いますが、

  日本の国内裁判所に韓国の関係者の方々が

  訴えて出るというようなことまでは妨げていないということでございます。・・・・

  ただ、これを裁判の結果どういうふうに判断するかということは、

  これは司法府の方の判断によるということでございます。

 

●199239日 衆議院予算委員会

 伊東秀子委員

  ・・・・今法制局長がお答えくださいましたように、

  外交保護権の放棄が個人の請求権の消滅には何ら影響を及ぼさない、

  とすれば、全く影響を受けていない個人の請求権が

  訴権だけだという論理が成り立つか否かという見解、

  解釈を伺っているのでございますが、

  いかがでしょう。

 工藤敦夫内閣法制局長官

  訴権だけというふうに申し上げているいることではないと存じます。

  それは、訴えた場合に、それの訴訟が認められるかどうかという問題まで

  当然裁判所は判断されるものと考えております。

 

●1994325日、の衆議院内閣委員会での答弁

 竹内行夫外務大臣官房審議官

  個人としての請求を例えば裁判所に提起するという

  権利まで奪われているということではない。

 

これらを見ると、国は個人の国に対する請求権を認め方向になったことが分かります。

そして韓国人が日本の裁判所に訴えることを出来るとしながら、

その訴訟が認められるかどうかは裁判所の判断としています。

仕方がない、渋々といった内容です。

 

1991年に金学順さんが名乗り出た頃は、

加藤紘一官房長官も「日本政府が関与した資料はなく、

今のところ政府が対処するのは困難」としていました。

しかし1210日、韓国外務部が駐韓大使の川島純公使に真相究明を求めると、

11日、日本政府は慰安婦問題について調査することを表明しました。

 

その後1992111日、中央大学の吉見義明教授が朝日新聞に、

「日本軍の関与を示す防衛庁図書館の資料を発見」、と発表しました。

この報道は反響を呼び、その結果国は謝罪する方向へと傾いていきます。

丁度宮澤総理が訪韓直前だったため、

112日、とりあえず加藤紘一官房長官は日本軍の関与を認め、

13日に謝罪談話を発表し、

17日には訪韓した宮澤首相は日韓会談で公式に謝罪しました。

 

参考までにその前後の日本の内閣を一覧表にしました。

慰安婦に関する流れと照らし合わせてください。

保守であっても民主的な総理大臣と官房長官の時に流れが出来たことがわかります。

内閣名

時期

官房長官

海部俊樹内閣

19898月~199111

数名交替

宮澤喜一内閣

199111月~19938

加藤紘一

細川護煕内閣

19938月~19944

竹村正義

羽田孜内閣

19944月~6

熊谷弘

村山富一内閣

19946月~19961

河野洋平

橋本龍太郎内閣

19961月~19987

数名交替

 

次に日韓の流れを中心に概略を表にしました。

月日

動き

1970

 

日本人のキ-セン観光に韓国の女性たちの批判が高まる

1977

 

日本で松井やより氏を中心にキ-セン観光反対運動が起きる

1984

 

松井やより氏が元慰安婦盧寿福のインタビュ-を朝日新聞に連載

1988

 

韓国梨花女子大学教授・尹貞玉さんがアジア各地の取材を始めた。

1990

1

尹貞玉さんハンギョレ新聞に「挺身隊取材記」を連載

1990

5.18

韓国女性団体連合会、日韓両政府に声明を発表

 

5.2426

盧泰愚韓国大統領来日

 

6.6

社会党の本岡参議院議員、国会で慰安婦問題について質問

労働省清水局長、調査はしないと答弁

 

11

韓国で元慰安婦のの支援団体「挺身隊問題対策協議会」結成

 

12

ソウルのアジア女性人身売買問題会議で慰安婦問題の報告

1991

8

元慰安婦・金学順さん、実名で証言

 

8.27

柳井条約局長、国会で個人の請求権があると答弁

 

11.28

金学順さん、NHK「ニュ-ス21」のインタビュ-を受ける

 

12.6

元慰安婦、日本政府を東京地裁に提訴

 

12.10

韓国政府、日本政府に真相究明を求める

 

12.11

日本政府、慰安婦問題について調査することを表明

1992

1.11

朝日新聞、防衛庁防衛研究所図書館で、軍が関与した史料を発見と報道

(吉見教授が発見)

 

1.13

加藤官房長官、慰安婦の募集・経営に日本軍の関与を認め、謝罪

 

1.1618

宮澤首相、訪韓して首脳会談や国会演説で謝罪

 

7.6

加藤官房長官、調査結果を発表、慰安婦問題に軍の関与を認め、謝罪

 

7.31

韓国政府、事実上の強制連行があったとする独自の報告書を発表

 

9

フィリピンで初の証言者が出る

1993

3.23

河野官房長官、元慰安婦に対する聞き取り調査の実施に言及

 

6

ウイ-ンで開かれた「国連世界人権会議」で始めて取り上げられる

 

7.2630

日本政府、ソウルで元慰安婦16人から聞き取り調査を実施

 

8.4

河野官房長官、調査結果を発表、謝罪(河野談話)

1994

3.25

竹内官房審議官、個人の請求があると答弁

 

8.31

村山首相、「平和友好交流計画」の談話でお詫びと反省の気持ちを表明

1995

7.19

アジア女性基金設立

 

89

北京で開かれた第4回世界女性会議で行動綱領に取り上げられた

1997

 

橋本龍太郎内閣の時、中学の教科書に慰安分問題が記述が始まる

 

 

更新日時:2020/07/06 16:27

談話や演説

「加藤紘一官房長官謝罪談話」          

1992113

・・・・発見された資料や関係者の証言、米軍等の資料を見ると、

従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に

旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できない・・・・

 

「宮澤喜一内閣総理大臣・大韓民国訪問時の演説」   

1992117

・・・・忘れてならないのは、・・・・歴史上の一時期に、我が国が加害者であり、

貴国がその被害者だったという事実であります。

私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを

体験されたことについて、ここに改めて、

心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。

最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが・・・・

実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っております。

さらに私は・・・・21世紀を担う次の世代に、

私たちの世代の過ちを過ちとして伝え、これを2度と繰り返すことのないよう、

歴史を正しく伝えていかなければならないと感じています。・・・・

 

1992年(平成4年)76日、調査結果が終了した為改めて加藤官房長官の発表がありました。

しかし、政府の関与は認めたものの強制連行についてはまだ触れられていませんでした。

 

「加藤紘一官房長官発表(談話)

朝鮮半島のいわゆる従軍慰安婦問題については、

昨年12月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において

政府が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、

今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。

調査結果については配布してあるとおりであるが、

私から要点をかいつまんで申し上げると、

慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、

慰安施設の築造・増強・慰安所の経営・監督、

慰安所・慰安婦の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、

政府の関与があったことが認められたということである。

調査の具体的結果については、

報告書に各資料の概要がまとめてあるので、それをお読み頂きたい。

なお、詳しいことは後で内閣外政審議室から説明させるので、

何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。

政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、

いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、

改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。

また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、

平和国家としての立場を堅持するとともに、

未来に向けて新しい日韓関係及び

その他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。

この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。

このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、

各方面の意見も聞きながら、誠意を持って検討していきたいと考えている。

 

731日、韓国政府は独自の報告書を発表し、事実上強制連行があったと主張しました。

1993323日、河野洋平官房長官は国会で

「文書を探す調査だけでは十分でないという部分もございますから、

関係された方々のお話もお聞きするということを考えています」と答弁しました。

726日から30日までの5日間、日本政府はソウルで、

韓国遺族会の元慰安婦16人から聞き取り調査を行いました。

 

そのような経緯があって翌年に河野談話が出されたのです。

河野談話が発表された日は宮澤総理大臣の辞任の前日です。

政権交代して慰安婦問題が闇に葬られるのを警戒し、

早めに処理への道筋をつけたものと思われます。

 

更新日時:2020/07/07 10:22

河野談話

199384日、

政府は資料調査と韓国人慰安婦からの聞き取り調査をした結果、

河野洋平官房長官は談話として下記の点を認めました。

 

河野談話

 いわゆる従軍慰安婦問題については、

 政府は、一昨年12月より、調査を進めてきたが、

 今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、

 数多くの慰安婦が存在したことが認められた。

 慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、

 慰安所の設置、管理及び慰安所の移送については、

 旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。

 慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、

 その場合も甘言、弾圧による等、

 本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、

 更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。

 また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送されたについては、日本を別とすれば、

 朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、

 その募集、移送、管理等も甘言、強圧による等、

 総じて本人たちの意思に反して行なわれた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、

 多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。

 政府は、この機会に、改めて、その出生地のいかんを問わず、

 いわゆる従軍慰安婦として数多くの苦痛を経験され、

 心身にわたり癒しがたい傷を負わされたすべての方々に対し

 心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。

 また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、

 有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、

 むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。

 われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶に留め、

 同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、

 また、国際的にも関心が寄せられており、

 政府としても、今後とも、民間の研究を含め、充分に関心を払って参りたい。

 

この河野談話を発表するに当たって、

発表の基になる調査をした「内閣官房内閣外政審議室」は

「いわゆる従軍慰安婦問題について」を発表しています。

 

「内閣官房内閣外政審議室の調査」

いわゆる従軍慰安婦問題について

平成584

内閣官房内閣外政審議室

1 調査の経緯

 いわゆる従軍慰安婦問題については、

 当事者による我が国における訴訟の提起、

 我が国会における議論等を通じ、内外の注目を集めて来た。

 また、この問題は、昨年1月の宮澤総理の訪韓の際、

 盧泰愚大統領(当時)との会談においても取り上げられ、

 韓国側より、実態の究明につき強い要請が寄せられた。

 この他、他の関係諸国、地域からも本問題について強い関心が表明されている。

 このような状況の下、

 政府は平成312月より、関係資料の調査を進めるかたわら、

 元軍人等関係者から幅広く聞き取り調査を行うとともに、

 去る726日から30日までの5日間、韓国ソウルにおいて、

 太平洋戦争犠牲者遺族会の協力も得て

 元従軍慰安婦の人たちから当時の状況を詳細に聴取した。

 また、調査の過程において、

 米国に担当官を派遣し、米国の公文書につき調査した他、

 沖縄においても、現地調査を行った。

 調査の具体的態様は以下の通りであり、

 調査の結果発見された資料の概要は別添の通りである。

 ◎調査対象機関 

   警察庁、防衛庁、法務省、外務省、文部省、厚生省、

   労働省、国立公文書館、国立国会図書館、米国国立公文書館

 ◎関係者からの聞き取り

   元従軍慰安婦、元軍人、元朝鮮総督府関係者、元慰安所経営者、

   慰安所付近の居住者、歴史研究家等

 ◎参考とした国内外の文書及び出版物

  韓国政府が作成した調査報告書、韓国挺身隊問題対策協議会、

  太平洋戦争犠牲者遺族会など関係団体が作成した元慰安婦の証言集等。

  なお、本問題についての本邦における出版物は数多いがそのほぼすべてを渉猟した。

 本問題については、政府は、すでに昨年76日、それまでの調査の結果について

 発表したところであるが、その後の調査もふまえ、

 本問題についてとりまとめたところを以下のとおり発表することとした。

2 いわゆる従軍慰安婦問題の実態について

 (1)慰安所設置の経緯

  各地における慰安所の開設は当時の軍当局の要請によるものであるが、

  当時の政府部内資料によれば、旧日本軍占領地域内において

  日本軍が住民に対し強姦等の不法な行為を行い、

  その結果反日感情が醸成されることを防止する必要性があったこと。

  性病等の病気による兵力低下を防ぐ必要があったこと、

  防諜の必要があったことなどが慰安所設置の理由とされている。

 (2)慰安所が設置された時期

  昭和7年にいわゆる上海事変が勃発したころ

  同地の駐屯部隊のために慰安所が設置された旨の資料があり、

  その頃から終戦まで慰安所が存在していたものとみられるが、

  その規模、地域的範囲は戦争の拡大とともに広がりを見せた。

 (3)慰安所が存在していた地域

  今次調査の結果慰安所の存在が確認できた国又は地域は、

  日本、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(当時)、

  タイ、ビルマ(当時)、ニュ-ギニア(当時)

  香港、マカオ及び仏領インドシナ(当時)である

 (4)慰安婦の総数

  発見された資料には慰安婦の総数を示すものはなく、

  また、これを推認させるに足りる資料もないので、

  慰安婦総数を確定するのは困難である。

  しかし、上記のように、長期に、かつ、広範な地域にわたって慰安所が設置され、

  数多くの慰安婦が存在したものと認められる。

 (5)慰安婦の出身地

  今次調査の結果慰安婦の出身地として確認できた国又は地域は、

  日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア及びオランダである。

  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地としては、

  日本人を除けば朝鮮半島出身者が多い。

 (6)慰安所の経営及び管理

  慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、

  一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営したケ-スもあった。

  民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、

  慰安所の施設を整備したり、

  慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての

  注意事項などを定めた慰安所規定を作成するなど、

  旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した。

  慰安所の管理については、

  旧日本軍は、慰安婦や慰安所の衛生管理のために、

  慰安所規定を設けて利用者に避妊具使用を義務付けたり、

  軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行う等の措置をとった。

  慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどの慰安所規定を設けて

  管理していたところもあった。

  いずれにせよ、慰安婦たちは戦地においては

  常時軍の管理下において軍と共に行動させられており、

  自由もない、痛ましい生活を強いられたことは明らかである。

 (7)慰安婦の募集

  慰安婦の募集については、

  軍当局の要請を受けた経営者の依頼により

  斡旋業者らがこれに当たることが多かったが、

  その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性が高まり、

  そのような状況の下で、業者らが或いは甘言を弄し、

  或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集められるケ-スが数多く、

  更に、官憲等が直接これに加担する等のケ-スも見られた。

 (8)慰安婦の輸送等

  慰安婦の輸送に関しては、業者が慰安婦等の婦女子を船舶で輸送するに際し、

  旧日本軍は彼女らを

  特別に軍属に準じた扱いにするなどしてその渡航申請に許可を与え、

  また日本政府は身分証明書等の発給を行うなどした。

  また、軍の船舶や車両によって戦地に運ばれたケ-スも少なからずあった他、

  敗走という混乱した状況下で現地に置き去りにされた事例もあった。

 

これらの内容を一見すると誠意ある謝罪のようにも聞こえますが、

国家はちょっと関与したが、主体はあくまでも民間業者である。

そして軍や国家が組織的にやったことではない。

だから国家の国際法上の犯罪ではないという見解です。

ですから政府は謝罪の意を表したが、賠償はしないと言う立場を取りました。

民間主体に行なったことだから政府は金を出さないが、

民間に基金を作って償い金を出させようとしたのです。

 

そして下線を引いた部分も

その後の歴史教育に生かすどころか、逆行さえしています。

その見解は今も生きていて、

「お詫びと反省」は政府や国民の共通認識になっていないようです。

 

内閣官房内閣外政審議室の「いわゆる従軍慰安婦問題について」の

5番目に慰安婦の出身地があります。

そこには出身地が、日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、

インドネシア、オランダの5ケ国になっています。

実はそれ以外にもマレ-シア、マ-シャル諸島、ビルマ、ミクロネシア、東チモ-ル

その他の地域にも慰安婦は居たのです。

しかし政府が上記5ケ国(日本と中国を外す)としたため、

その後、他の国は無視されることになってしまいました。

その結果として、次項目のアジア女性基金の対象から外される結果になるのです。

 

そして政府はこの官房長談話で調査を終了したとして

それ以降調査する努力を中止し、今に至っています。

 

更新日時:2020/07/07 13:34

村山談話

当時の村山内閣総理大臣は1995(平成7)815日、談話を発表しました。

いわゆる村山談話です。

 

「村山談話」

戦後50周年の終戦記念日にあたって

 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。

 今、あらためて、あの戦争によって

 犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、

 万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、

 今日の平和と繁栄を築いてまいりました。

 このことは私たちの誇りであり、

 そのために注がれた国民の皆様11人の英知とたゆみない努力に、

 私は心から敬意の念を表すものであります。

 ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、

 あらためて深甚な謝意を表明いたします。

 また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に

 今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、

 心から喜びたいと思います。

 平和で豊かな日本となった今日、

 私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。

 私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、

 戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。

 とくに近隣諸国の人々と手を携えて、

 アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、

 なによりも、これらの諸国との深い理解と信頼にもとづいた

 関係を培っていくことが不可欠と考えます。

 政府はこの考えにもとづき、

 特に近代史における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、

 各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、

 この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。・・・・・・

 いま戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、

 来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、

 人類社会の平和と繁栄でへの道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、

 戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、

 植民地支配と侵略によって、多くの国々、

 とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。

 私は、未来に過ち無からしめんとする故に、

 疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、

 ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明します。

 また、この歴史がもたらした内外の全ての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

  以下省略

 

更新日時:2020/07/07 13:46

強制連行の意味について

当然のことですが法律的にはどうであれ、

女性を拉致、売春を強要することは人道上許されないことです。

最近では慰安婦問題に関して強制連行はなかったと主張する人が増えています。

特に政治家に多いように思います。

その主張は朝日新聞の謝罪記事以降激しくなりました。

慰安婦問題は女性に対する人権侵害の問題であるのに、

強制という言葉だけが問題になり、

あたかも強制連行でなければ良いような言いかたがされています。

 

今回は強制連行と言う言葉に絞って話を進めます。

暴力的連行や人さらいを強制連行と言いたいようですが、

「本人の意思に反して連行する」ことは全て強制連行です。

刑法ではこれ等の罪は厳しく罰せられます。

刑法上は、暴力的な連行を略取といい、だまして連行することは誘拐としています。

略取も誘拐も本人の意思に反して連行することですから強制連行です。

 

当たり前のことですが軍と警察は違います。

軍が「戦争には慰安所が必要」という自分の都合で法をないがしろにした行動をとっても、

警察は法律を守る立場から取締ろうとしました。

最後には軍、軍事国家の力で押し切れらることは多いのですが

やはり国家としては法を守ろうとしていました。

まず、明治時代にいわゆる「からゆきさん」を国外に移送したとき、

様々なトラブルが生じました。

そのことに関して当時の外務省の訓令があります。

 

外務省訓令第1号 1893年(明治26年)23

 近年、不良の徒各地を徘徊し、甘言を以て海外の事情に疎き婦女子を誘惑し、

 遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後、正業に就かしむることを為さず、

 かえってこれを脅迫して醜業を営なましめ・・・・

 これが為に、海外において言うに忍びざるの困難に陥る婦女、追々増加し、

 在外公館において救護を勉むといえども、

 あるいは遠隔の地に在りて、その所在知るに由なく、

 困難に陥れる婦女も、また種々の障碍の為にその事情を出訴すること能わざる者多し。

 よってこれら誘惑渡航の途を途絶し、

 かつ婦女をしてみだりに渡航を企画せしめざるよう取計らうべし。

 黄色線を引いた「甘言」「誘惑」「脅迫」これらを強制連行として取締ろうとしたのです。

 

その後1908年(明治41年に)刑法が制定されました。

 

刑法 注: 1991年に改正されていますが基本的には変わりません

 第224条 未成年者略取及び誘拐

未成年者を略取し、又は誘拐した者は、3月以上5年以下の懲役に処する

 第225条 営利目的等略取及び誘拐

営利、わいせつ又は結婚の目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、

1年以上10年以下の懲役に処する

 第226条 国外移送目的略取等

① 日本国外に移送する目的で、人を略取し、

 又は誘拐した者は、2年以上の有期懲役に処する

② 日本国外に移送する目的で人を売買し、又は略取され、誘拐され、

   若しくは売買された者を日本国外に移送した者も、前項と同様とする

 

このように刑法上は「略取及び誘拐」となっていますから、

暴力的な行為も甘言を用いただましも同等に処罰されます。

そしてそいずれも本人の意思に反していますから強制連行です。

 

慰安所が開設された当初、

慰安婦の調達方法に日本の警察は驚き、取締りを強化しました。

 1 193235月、長崎から上海に15人の女性を連行した事件

 2 19333月、未成年女性を静岡県から満州国に連行した事件

 3 19335月、同じく静岡から連行しようとして逮捕された事件

 4 1936年、佐賀県から未成年女性を満州に連行する途中、門司で逮捕された事件

 5 19381月、和歌山から上海に慰安婦として連行しようとした男3人を、

          婦女誘拐の疑いで拘束

この中で2,3,4の例はカフェ-女給名目だった為、「娼妓取締規則」違反でした。

 

1番目の事件を取り上げます。

この事件は逮捕後、

長崎地裁判決→長崎控訴院判決→大審院(最高裁)で判決が出されました。

まず判決の要点ですが

 *上海の海軍指定慰安所に「醜業に従事するものなること」の事情を秘し

 *単に女給、または女中と欺瞞し

 *収入は祝儀だけでも1ケ月780円に達し、

  1年ぐらい居り家を造りたる人ひともあると、勧説、誘惑し

 *計5回にわけて女性たちを上海に移送した

そして判決は7人に懲役2年から36ケ月の実刑、3人に執行猶予の処分がされました。

 *その時の大審院の判決文の中から  193735

  当時上海は、わが帝国軍隊駐屯し、わが裁判権および警察権の及し場所、

  すなわち、わが主権の及べる場所なるをもって、

  土地そのものは中華民国に属せるものなるべしといえども、

  かかる場所に人を移送するは、刑法226条に、

  いわゆる帝国外に移送するものといういうべからざるものと信ず。

  はたしてしからば、原判決は不当に法律を適用したる違法あるものなりというにあれども、

  誘拐罪につき刑法226条に特別規定の設けられた理由は、

  畢竟国情を異にし、帰還の容易ならざる他国に被誘惑者を移送し、

  または移送する目的とするはごときは、普通の誘惑行為に比し、

  情状軽からざるものあるによること勿論にして、

  その他国に帝国軍隊の駐屯すると否と、わが裁判権ならびに警察権の行たわるると否は、

  問うところにあらず・・・・

 

その結果内務省警補局長からも通達が出ています。

支那渡航婦女の取扱いに関する件 

  1938223日 内務省警補局長 内務省発警5号 

  原文カナ

 ・・・・これら婦女の募集斡旋の取り締まりに、適性を欠く事は

 帝国の威信を傷つけ皇軍の名誉を損なうのみならず、

 銃後の国民特に出征兵士遺族に好ましくない影響を与えると共に、

 婦女売春に関する国際条約の主旨に背く・・・・

 

更新日時:2020/07/07 13:57

陸軍刑法

それでは軍は刑法上、強姦をどのように考えていたのでしょうか?

 

明治41年施行の陸軍刑法(原文カナ)

9章 掠奪の罪

 第86条 戦地又は帝国軍の領土地において住民の財産を掠奪したる者は

      1年以上の有期懲役に処す。

    罪を犯すに当たり婦女を強姦したるときは無期又は7年以上の懲役に処す。

 

と、ありますが、掠奪のついでに強姦した場合のみが対象になっていました。

強姦のみの場合は陸軍刑法ではなく、一般刑法が適用とされました。

その場合親告罪(被害者本人の告訴が必要)でしたので、

実際にはほとんどが泣き寝入りだったと思います。

軍隊の強姦に対する考え方はこの程度だったのでしょう。

 

11軍司令官だった岡村寧次は強姦の多さに困り、

日本に帰還した19403月、

戦時強姦罪の設定を阿南陸軍次官に訴えています。

阿南はただちに同意し、

改正に着手しますがなかなか改定されませんでした。

2年後の1942220日に陸軍刑法は改正され、

強姦の罪という単独の項目になりました。

改正に際して

「世界に冠たる皇軍の規律が疑わしいとは何事だ・・・!」という反発を予想して、

法務局は次の回答を準備しています。

 

準備された回答

 支那事変勃発以来軍は相次ぐ動員編成により、

 その包容する人員激増し性格、能力、体力等において種々雑多者を迎え、

 中には素質低劣の者、教育不十分なる者を免れず、

 遺憾ながら抗命、上官暴行殺傷強姦等の罪を犯す者も相当の数に上っているのであります

 

そして陸軍刑法は次のように改正されました。

改正された陸軍刑法

 第9章 掠奪強姦の罪

  第88条-2

 ・・・・前項の罪を犯す者、人を傷したるときは

 無期又は3年以上の刑に処し、

 死に至らしたるときは無期もしくは7年以上の懲役に処す

 

9章に強姦と言う言葉が入りましたが、刑は7年から3年に軽くなりました。

そして一般刑法から陸軍刑法の適用になったため親告罪ではなくなりました。

ところが実際には現地では、強姦に陸軍刑法を適用せず、

一般刑法で処理した事が多々ありました。

一般刑法では先ほども述べたように被害者が自分で訴える親告罪でしたので、

多くの事件がうやむやにされ、又は訴えられないように強姦後殺害してしまったのです。

 

では、陸軍刑法を改正して強姦は減ったのでしょうか?

相変わらず多かったようです。

 

まず岡村寧次が進言した改正作業の途中です。

陸軍省局長会報での大山文男法務局長の説明

194189日 金原節三「陸軍省業務日誌摘録」

 ・・・・軍法会議の上半期において取扱件数1,900余件あり、

 内軍人1,126人・・・・兵士に比し幹部に多し、現役者と下士官に多く・・・・

 掠奪39件・・・・横領100件以上、収賄69件、強姦39件・・・・

 注:軍法会議にかかるのはわずかで、

   強姦の多くは秘密に処理されていた

 

更新日時:2020/07/07 14:25

軍も困っていた

軍が慰安婦の連行や強姦に困っていたことは事実のようです。

国家や正規軍がこのようなことを推奨するわけはなく、

結果として起きてしまったからです。

勿論、国家や軍に責任があるのは当然のことです。

 

軍慰安所従業婦等募集に関する件   

   193834日 陸支密第745(原文カナ、意訳)

   陸軍省兵務課起案 

   副官より北支那方面軍及び中支那派遣軍参謀長宛通牒案

    (梅津美次郎陸軍次官や今村均兵務局長の決裁印があります)

 支那事変地における慰安所設置のため、

 内地においてこれが従業婦などを募集するにあたり、

 ことさらに軍部了解などの名義を利用し、ために軍の威信を傷つけ、

 かつ一般民の誤解を招くおそれある者、

 あるいは従軍記者、慰問者などを介して不統制に募集し、

 社会問題を惹起するおそれある者、

 あるいは募集に任ずる者の人選適切を欠き、

 ために募集の方法、誘拐に類し、警察当局に検挙、取り調べを受ける者あるなど、

 注意を要するもの少なからざるについては、

 将来これらの募集にあたりては、派遣軍において統制し、

 これに任ずる人物の選定を周到、適切にし、

 その実施に当たりては、関係地方の憲兵および警察当局との連携を密にし、

 もって軍の威信保持上、ならびに社会問題上、遺漏なきよう配慮相成りたく、

 命(注:天皇の命令)により通牒す。

 ◎解説:以前でも軍が選定した業者が慰安婦の募集をしていましたが、

  その選定業者があまりにひどい募集をするので、

   困った軍は今後しっかりと選定しさらに警察や憲兵と協力するという意味です。

  そしてこの文章から分かる事は、

  内地つまり日本国内ですら誘拐まがいのひどい募集をしていた事です。

  国内ですらそうですから、

  植民地や占領地では慰安婦をどのように集めたのか分かるというものです。

  そしてもし軍の威信を守り、社会問題化を防ぐなら

  慰安婦制度そのものを禁止すればよいのであって、

  周到にしてうまくごまかそうとしています。

  なお、この通達の時期は南京事件の直後だったことも重要です。

 

「軍参謀長口演要旨」 17922日 第14軍司令部

   (フィリピン)イロイロ憲兵分隊執務参考綴り(比島防衛546)から

   (原文カナ)

 13 省略

 4 軍紀風紀について

 当軍上陸以来の犯罪非行の状況をみると、

 作戦初期においては強姦著しく多く一時憂慮したが・・・・

 近頃窃盗横領等の散発を見る。

 特に将校、下士官にしてこの種の犯罪を犯す者がある・・・・

 役種別に状況を見ると、強姦や対上官犯は共に召集者に断然多く、

 窃盗横領は現役者に多い・・・・

     以下省略

 

「軍法会議取扱人員表」 昭和171月から12月  

 第一野戦憲兵隊会議書綴 から

  陸軍刑法 戦地強姦    7

   戦地強姦致死  1

刑法   強姦    

     強姦未遂    2

   注:逮捕されて処罰された人数です。実際はこの何10倍もあったでしょう

 

64師団戦史から 19447月に華北から第11軍に配属された部隊

 ・・・・湖南省に到着して将兵一同驚いたここは、

 第11軍将兵全般の民衆に対する暴戻ぶりであった。

 即ち、第11軍各兵団は

 「戦いには強いが民衆に臨むには暴であった」との感を強くした。・・・・

 いくたびかの第11軍の長沙攻略により、戦禍を蒙った住民の中には、

 放火、掠奪、強姦、殺傷等により、怨恨の骨髄に徹するものあり・・・・

 

このように慰安所を作っても、

陸軍刑法を改正しても強姦事件は増えるばかりでした。

国府台陸軍病院の早尾軍医中尉が軍の委託を受けてまとめた

「戦場に於ける特殊現象と其の対策」という論文があります。

その中の「性欲と強姦」という項目には次のように書かれています。

 

性欲と強姦 

   国府台陸軍病院附 金沢医科大学教授 陸軍軍医中尉 早尾乕雄

   19396月(原文カナ、意訳)

・・・・出征者に対して性欲を長く抑制することは、

自然に支那婦人に対して暴行することになるだろうと兵站部は気をきかせ、

中支那にも早々に慰安所を開設した。

その主要な目的は性の満足により将兵の気分を和らげ

皇軍の威厳を傷つける強姦を防ぐ事にあった。

慰安所の急設は確かにその目的の一部は達した。

しかしあの多数の将兵に対して慰安所の女の数は問題にならない。

上海や南京には慰安所以外にその道は開けているから

(注:民間の売春宿があった)

慰安所の不足した地方や前線へ送り出せたが、

それでも地方では強姦の数は相当あり、また前線にもこれを多く見る。

これは女の供給が不足していることが原因であるが、

やはり留学生が西洋女に興味を持つと同様で

支那女に好奇心が湧くとともに

内地では到底許されないことが

敵の女だから自由になるだろうという考えが非常に働いているため

支那娘をみたら憑かれた様に引き付けられて行く、

従って検挙された者こそ不幸なんで、陰ではどれ程あるか分からない・・・・

部隊長は兵の元気を作るために必要として見て見ぬ振りをしたのさえあった・・・・

勝利者なるが故に金銀財宝の掠奪は言うに及ばず、

敵国婦女子の身体まで汚すとは誠に文明人のする行為とは考えられない。

東洋の礼節を誇る国民として慙愧に耐えぬことである。

昔、和倭は上海に上陸し南京に至るまでこのような暴挙に出たため

非常に野蛮人として卑しめられ嫌われたというが、

今においても尚、同じ事が繰り返されるとは何とした恥辱であろう・・・・

日本の軍人は何故このように性欲に理性が保てないのかと、

私は大陸上陸と共にただちに痛感し、戦場生活1年を通じて始終痛感した。

しかし軍当局はあえてこれを不思議とせず、

この方面に対する訓戒は耳にした事がない。・・・・

軍当局は軍人の性欲を抑えることは不可能だとして、

支那婦人を強姦しないように慰安所を設けた。

しかし強姦ははなはだ盛んに行なわれて、支那良民は日本軍人を見れば必ず恐れた・・・・

 

そのあたりの事を、金原節三「陸軍省業務日誌摘録」から見てみます。

(文章は適時意訳します)

陸軍省課長会報での法務局長報告  1942212

 富兵団(第25軍)において敵前逃亡112、強姦3、掠奪3の報告あり・・・・

 比島(フィリピン)方面でも相当強姦(14名)あり、

 下士官の婦人傷害事例もありたり。・・・・

局長会報(大山文雄法務局長と田中隆吉兵務局長のやりとり)194252

 (法務局長) 25軍の独立速射砲第1大隊の現役大尉が

      クアラルンプ-ルにおいてマレ-人の妻女を強姦、

      その時計56個を掠奪し、さらにジョホ-ルの第3王女を騙し、

      写真機を詐欺し、強姦、掠奪、詐欺の犯罪を犯せる者あり。

 (兵務局長) 25軍はクアラルンプ-ルに来るまではとかくの評判ありしも、

    この事件を契機として今後面目を一新せり。

 (法務局長フィリピン方面においても強姦多かりしが、

      厳重なる取締まりをなしたる結果、犯罪激減せり。

 (兵務局長) フィリピンは他の地域に比し比較的多かった。

    しかし、支那事変に比すれば少ないといえる。

        注:中国での強姦が相当酷かったか分かる発言です。

局長会報 大山法務局長の報告  194259

 南方軍の犯罪件数23件。

 大体において支那事変に比し少なし。

 第14軍(司令官本間雅晴中将)には強姦が多し。

 女が日本人向きなるをもってなり。

   注:女が日本人向きだから強姦が多いとは変な理屈です。

局長会報 大山法務局長の報告 1942527

 南方犯罪の状況:掠奪強姦76件(開戦以来)、

 強姦は14軍に多し、犯罪が多きは、14軍、15軍、16軍、南方総軍、直轄、の順で、

 軍律違反も14軍に多し。

       注:第14軍はフィリピン、第15軍はタイ・ビルマ、

         第16軍はインドネシアを担当

局長会報 田中兵務局長の報告 194263

 ・・・・マレ-では支那婦人に対する暴行が5月の1ケ月だけで8件あった。

局長会報 大山法務局長の報告 1942812

 南方の犯罪610件、強姦罪多し、支那よりの転用部隊に多し。

 慰安設備不十分、監視監督不十分に起因す。

 拘禁所にはどこも200名あて収容しあるが、いずれも34名の法務官が処理しあり

 

これらの局長会報を見ると、いかに中国での強姦が凄まじかったかが分かります。

その結果中国から転進してきた部隊が

南方に来てさらに強姦事件を起こしていることが分かります。

 

更新日時:2020/12/26 8:53

旧内務省 復命書

直接慰安婦に触れているわけではありませんが、

朝鮮人強制連行を証明する文書があります。

労働者を強制連行しているのですから、

慰安婦も当然強制連行でしょう。

 

戦争中の朝鮮の強制連行を示す「旧内務省資料」です。

●  復命書 (少し読み易く整理しました)

1944(昭和19)731

内務省管理局・小暮泰用→同省管理局長

復命書    

嘱託 小暮泰用

  命により小職最近の朝鮮民情動向

  並びに村行政の状況調査の為朝鮮へ出張したるところ

  調査状況 別紙添付の通りであり 復命候也

  昭和19731

  管理局長 竹内徳治殿

目次

 1. 戦時下朝鮮における民心の趨勢 

  殊に知識階級の動向に関する忌憚なき意見

省略

 2. 都市および農村における食糧事情

  朝鮮に於ける都市及び農村の食糧事情は

  相当深刻のものあり、

  その実例として朝鮮に旅行する時 

  汽車の窓より望むるも沿線の林野に於ける

  松木の皮を剥きたるもの相当見受けることがあるが 

  沿線にあらざる深山には尚多く 

  近き将来に於て朝鮮の松木は或いは

  枯れ死するのではないかと

  憂慮する人達も相当多いようである・・・・

  要するに朝鮮の食糧事情は都市方面の非農家は

  殆ど正確に近い所定量の配給を受けながら尚空腹を訴え、

  農村人は自ら食料を生産しながら尚出来秋以外の時に於いては

  概して自家の食料にも切迫している実情である

 3. 今次在勤文官加俸令改正の官界並びに

  民間に及ぼしたる影響

省略

 4. 第一線行政の実情 殊に府、邑、面における

  行政浸透の現状如何

省略

 5. 私立専門学校等整備の知識階級に及ぼしたる影響

省略

 6. 内地移住労務者送り出し家庭の事情

  ・・・・しかし戦争に勝つためには

  かくの如き多少困難な事情にあっても

  国家の至上命令によって無理にでも

  内地へ送り出さなければならない今日である、

  しからば無理を押して内地へ送り出された

  朝鮮人労務者の残留家庭の実情は

  果たして如何であろうか、

  一言をもってこれを言うならば

  実に惨憺たる目に余るものがあるといっても

  過言ではない

  けだし朝鮮人労務者の内地送り出しの

  実情に当たっての人質的掠奪的拉致等が

  朝鮮民族に及ぼす悪影響もさることながら

  送出即ち彼らの家計収入の停止を意味する

  場合が極めて多いようである、

  その統計は明らかではないが

  最近の一例を上げてその間の実情を

  考察するに次の様である・・・・・

  更に残留遺家族特に殊に婦女子の労働は

  どうであるかに付いて調査して見るに、

  朝鮮の都市に於て一家支柱たりし男子に

  残留婦女子代替わりし得ることの

  出来ないことはもとよりであるが 

  農村に於ても土壌の瘠薄(痩せ細る)性と

  耕種法の特に農具の未発達、高率の小作料、

  旱水害、その他各種夫役等の増加の多い

  今日においては全家族動員して

  労務に従事し以てようやく家計を維持したる農民が

  戸主又は長男等の働き手を送出したる後

  婦女子の労働をしてその損失を補償代替

  更に進んでは家計の好転をはかり得ない事は

  明白なる事実であって、

  この点自然的条件に恵まれ

  耕種法その他営農の発達したる

  内地農村と同一に考える事は出来ないのである、

  いわんや朝鮮農村の婦女子は

  その9割以上が殆ど無教育であり 

  青少年は徴兵実施ととそれに伴う

  各種の錬成その他の行事の為に

  実際的には働き手たる意義を

  大いに減殺されているのである 

  しかして送出後の家計は如何なる形においても

  補はれない場合が多い、

  以上要するに送出は彼ら家計収入の停止となり

  作業契約期間の更新等により長期に亘る時は

  破滅を招来する者が極めて多いのである、

  音信不通、突然なる原因不明の死亡電報等にいたっては

  その家族に対して言う言葉を知らない程

  気の毒な状態である、

  しかし彼ら残留家族は家計と生活に苦しみながら

  一日も早く帰還することを待ちあぐんで居る状態である・・・・

 7. 朝鮮内における労務規則の状況

  並びに学校報国隊の活動状況如何

  従来朝鮮内に於いては労務給源が比較的豊富であった為に

  支那事変勃発後も当初は何ら総合的計画なく

  労務動員は必要に応じてその都度行われた、

  ところがその後動員の度数と員数が

  各種階級を通じて激増されるに従って

  ほぼ大東亜戦争勃発頃より本格的労務規制が

  行われるようになったのである 

  しかして今日に於いては既に労務動員は

  最早頭打の状態に近づき種々なる問題を露出すつつあり

  動員の成績は概して予期の成果を納め得ない状態である、

  今その主なる点を挙げれば次の様である

  ()朝鮮に於ける労務動員の方式

  おおよそ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊の如き

 4つの方式がある 

  徴用は今日迄のところ極めて特別なる場合は別問題として

  現員徴用(これも最近の事例に属す)以外は行われなかった、

  しかしながら今後は徴用の方法を大いに強化活用する必要に迫られ

  かつそれが予期される事態に立ち至ったのである 

  官斡旋は従来報国隊と共に最も多く採用された方式であって 

  朝鮮内に於ける労務動員は大体この方法によってなされたのである 

  また出動隊は多く地元に於ける土木工事

  例えば増米用の溜池工事等への参加の様な場合に

  採られつつある方式である、

  しかしながら動員を受ける民衆にとっては

  徴用と官斡旋には出動隊も報国隊も

 全く同様に解されて居る状態である

()労務給源

  朝鮮内の労務給源は既に頭打ちの状態に

 あるというのが実情であると思われる・・・・

()動員の実情

    徴用は別としてその他如何なる方式に於ても

   出動は全く拉致同様な状態である  

   それはもし事前に於てこれを知らせば皆逃亡するからである、

  そこで夜襲、誘出し、その他各種の方策を講じて

  人質掠奪拉致の事例が多くなるのである、

  何故に事前に知らせば彼らは逃亡するか、

  要するにそこには彼らを精神的に惹き付ける

  何物もなかったことから生ずるものと思われる、

  内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは

  往々にして彼らの心身を破壊する事のみならず

  残留家族の生活困難ないし破滅が

 しばしばあったからである・・・・・

 

注:現在日韓で徴用工問題の裁判が話題になっています。

    この様に拉致同様な状態で連行したという事です。

  明らかに強制連行の状態を徴用といえるのでしょうか?

 

更新日時:2020/07/07 16:42

朝鮮半島からの強制連行

  注:週間金曜日1067号 今田真人氏の論文を引用しました。

国立公文書館には朝鮮人の動員に関する公文書が多く保存されています。

その中には次のような書類があります。

  「昭和19年度別録・国家総動員計画及物資動員計画関係書類3

② 「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件・昭和19712日公布・閣議決定」

③「昭和19年度内地樺太南洋移入朝鮮人労務者供出割当数調」

④ 「昭和18年度国民動員計画の解説・企画院第3部・山内第2課長講演」

⑤ 「軍慰安所に於ける酌婦女給等の雇入・行政事務の整理簡捷化及

    中央官庁の権限の地方委譲等に関する件・昭和181214日閣議決定」

⑥「第2次許可認可等行政事務簡捷化に関する件・昭和1916日閣議決定」

 

これ等の書類の中で②には男女別の計画数が書かれています。

つまり女性の動員数が決められているということです。

これに対して④の日本政府企画院の計画には女性が含まれていません。

男性だけの動員数です。

そうすると不足人数は女性ということになります。

表に整理してみました。

今田真人氏の表に加筆しました。

国民総動員計画による人員数

年度

国民動員計画による計画数 ②

 

 

 

正式動員計画

不足人数

 

内地

樺太

南洋

合計

参考④

 

1939

85,000

 

 

85,000

85,000

0

1940

88,800

8,500

 

97,300

88,000

9,300

1941

81,000

1,200

17,800

100,000

81,000

19,000

1942

120,000

6,500

3,500

130,000

120,000

10,000

1943

150,000

3,300

1,700

155,000

120,000

35,000

1944

290,000

10,000

 

300,000

290,000

10,000

合計

814,800

19,500

33,000

867,300

784,000

83,300

 

ここで問題になるのは、次の点です。

1    動員が強制連行だったのか

2    何故正式動員計画に女性を入れなかったのか

3    不足人数の女性が慰安婦だったのか

強制連行だったかどうかは、一つ前の項目

「旧内務省復命書」を読んでいただければ強制連行だったことが分かります。

不足人数については単なる間違いではなく意図的に女性の動員を隠したものと思われます。

 

④の解説書の中に質疑応答があります。

引用します。

質問:朝鮮人はどのくらひ使ってをるでしょうか

課長:数ですか・・・・毎年入れるのは其の年によって相違はありますが、

  最近は計画上は大体12万位です。

     けれども出ていくものもあり期間満了によって帰鮮するものもありますから

  そう沢山の増加は致しません。

質問:それは男子朝鮮人だけですか。女子はをりませんか。

課長:をりますけれども計画の中で女子をのせたことはないのです。

     ただある方面で必要上少々女子を集団移入としていれたものもあります。

 

慰安婦だったかどうかについては⑤「軍慰安所に於ける酌婦女給等の雇入」に、

認可に付いての厚生大臣への稟伺(労務調整令)が書かれています。

労務調整令は国民徴用令と共に強制的なものです。

そして⑥では権限を日本内地に限って廃止しています。

つまり朝鮮半島では強制的な労務調整令による

軍慰安所に於ける酌婦女給等の雇入が出来たということです。

さらに⑥では動員先の職種が

(恐らく軍)の要求に依リ慰安所的必要ニ依リ酌婦女給ヲ雇入レノ場合」

と書かれています。

 

整理すると、以下の事が分かります。

*動員計画は強制的なものだった

*女性の動員は秘密に行われた

*女性の動員は軍の要請による慰安所の酌婦女給だった

*国家や軍が直接関与していた

 

更新日時:2020/07/07 16:49

強制連行の証拠・フィリピン

慰安婦の強制連行に関して吉田清治証言が不正確ならば、

その他多くの証拠を取り上げます。

まずフィリピンです。

フィリピン人「従軍慰安婦」裁判訴状から

 フィリピン人元「従軍慰安婦」を支援する会資料から

名前

連行状況

連行場所

被害時期

14

15

マリア・ロサ・ヘンソン

  パサイ市マッキンレ-要塞付近薪集め中3人の日本兵に強姦

②アンヘレス市病院前検閲所で呼び止められ

病院等に監禁

422

 

433

1920

アナスタシア・コルテス

2時頃、家から縛られて夫と日本軍トラックで

マニラ市サンチャゴ要塞に

監禁6ケ月

43

34

13

トマサ・サリノグ

  就寝中、日本兵2人。

  ヒロオカ大尉に引きずり出され

  オクムラ大佐に捕まり、

  炊事洗濯、輪姦

駐屯地隣接の家に監禁

石原産業倉庫

42年前半、数ケ月

4345

16

エステリ-タ・サラス

昼食準備中日本兵3人に捕まる

エマニュエル病院

42年から

18

ロザリオ・ノプエト

洞窟から出る時日本兵に捕まる

駐屯地(町役場)

44

19

フランシスカ・アウスタリ

川で洗濯中日本兵に捕まる

民家に監禁

4212

15

フリア・ポラス

家のそばで日本軍トラックに

橋下の防空壕

4411月、8ケ月

15

サビ-ナ・ヴィリエガス

朝就寝中拉致、他10名も強姦

駐屯地テント

423

15

ロシ-タ・ナシ-

路上で10名位と拉致される

駐屯地

43

20

ワニタ・ハモット

アパ-トで6名拉致

オカラビル駐屯地

44

22

マリア・フェ・サンティリアン

2人の将校に食堂から拉致

駐屯地本部ビル

4212月~44

18

シンプリア・マリラグ

セント・トマス大学近くで拉致

駐屯地

434月、1ケ月

16

クリスティ-タ・アルコベル

家から日本兵に連行

駐屯地

4244

21

フニティ-タ・ヴィラヌエヴァ

料理長ヤマトに脅迫

駐屯地内家屋

 

20

ビクトリア・ロペス

洋裁している時トラックで連行

駐屯地監禁

44

21

ピュリフィカシオン・メルガ-ド

トラックで拉致

駐屯地監禁

44

17

ルフィ-ナ・フェルナンデス

就寝中家族虐殺、拉致

公園内教会

4412

25

フェリサ・ボルナレス

深夜家から連行

テント地の部屋

42

25

ネニ-タ・バリサリサ

家で小林将校他に車で連行

山の駐屯地

441

14

アモニタ・バラハディア

避難中、日本兵に連行

サンチアゴ町役場

43

15

パシ-タ・サンテリアン

洞窟で住民虐殺、母と強姦

 

4310

25

プリ-タ・カニェ-ド

夕食支度中4人の日本兵に拉致

駐屯地

43年、1ケ月

18

マリア・デル・カンポ

家にキムラ大尉が来て強姦、拉致

駐屯地

434

17

ヒラリア・ブスタマンテ

ヘルモサの国道で日本兵に拉致

駐屯地

4310

17

ヴィオレッタ・サンサロ-

市場に行く途中日本兵に拉致

駐屯地

4210

22

レメディオス・ヴァレンシア

パコ市場から軍トラックで拉致

  空港近くの小屋

  ダコダ地区の家

42年~43

22

ピエダット・ノプレ-ザ

家の前で2人の日本兵に拉致

教会(駐屯地)

433

18

ディオネシア・アマビット

買い物中3人の日本兵に強姦

教会~駐屯地

443月数ケ月

12

コレア・シメオン

道路で日本軍トラックで拉致

駐屯地

4411

13

カタリ-ナ・オファルサ

日本兵とマカピリに連行、監禁

村役場の監獄

4312

10

フェリシタス・ハンポリ-

家で5人の日本兵に連行

村役場の部屋

442

12

マリア・マナレス

遊んでいると船の船尾で輪姦

 

42

訴状にはまだ多くの女性が記載されていますが省略します。

このフィリピンの例を見ると全て強制連行です。

しかも暴力的拉致です。

多くは日本軍の駐屯地で被害にあっています。

正式な慰安所だったかどうかという言葉は別にしても、

被害者から見れば強制連行されて、

駐屯地という慰安所で慰安婦の扱いを受けたのです。

 

更新日時:2020/07/07 16:53

カラゴンの事件・英国BC級裁判

英国によるBC級裁判での訊問記録です。

この事件は、ビルマ南東部モ-ルメン地方のインド人の村、

カラゴンを襲った日本軍が600人以上の住民を虐殺した事件です。

日本軍の部隊は第33師団歩兵第215連隊第3大隊です。

この裁判で大隊長の市川清義少佐は死刑判決を受けています。

 

その中で慰安婦に関する部分の検察と大隊長のやり取りです。

このやり取りを見ると、女性の調達が軍の命令で行われた事がわかります。

 Q どのようにして彼女たちを選んだのですか?

 A 私は女性たちに、チャウンナクアで我々のために働きたいと考える者で、

    子どもがいない者は志願してよいと言いました

 Q 選ばれた女性たちはみんな若い女性であったというのは事実ですか?

 A はい

 Q 一般的に慰安婦として知られているように、

    日本軍に奉仕させるために地元の女性を集めるのは、

    日本軍がいつもやることではないですか?

 A 一般的な考えがどうであったのかは分かりません。

  私は彼女らを連れてくるように直接、命令され、そして連れてきたのです。

 Q あなたは日本軍の慰安婦にするために彼女たちを連れてきたのではないか?と

   私は言っているのです。

 A 日本軍では師団からの命令がなければ、

   慰安所でサ-ビスする女性たちを雇うことは出来ません。

 

更新日時:2020/07/07 17:04

バタビア裁判

20143月、関東学院大学の林博史教授が新しい資料を発見し発表しました。

資料を見つけた所は国立公文書館です。

オランダ軍によるBC級裁判でスマラン裁判に関連する裁判です。

本来は慰安婦関係の裁判ではありませんでした。

しかし被告のインドネシアのバリ島に駐屯していた

元海軍兵曹長が、1962年の日本の法務省調査で行った供述を見ると

裁判内容とは別に慰安婦に関係している供述があります。

日本に帰ってきてからの供述ですから安心して本当のことをしゃべったのかもしれません。

季刊戦争責任資料第82号の林博史論文を要約します。

まさに組織的な隠蔽工作をしてうまくいったとする証拠資料です。

 

現地臨時軍法会議付託決定書による被告の概略

 チビナン刑務所に拘禁中

 福岡県福岡市■■■■生まれ

 1908825日出生

 当年38

 日本海軍二等兵曹

現地での裁判記録

 暴行恐喝で慰安婦問題ではないため省略

判決 懲役12

 内容要約

 19478月、オランダ軍がバタビア(ジャカルタ)で

 開いた軍法会議で懲役12年だった

 罪に問われた10件は住民への暴行

 一番恐れたのは慰安所問題の発覚だった

 

「被告の帰国後の供述」

名称 蘭・バタビア法廷事件第25

三警事件資料

大阪、神戸地方出張調査報告書N0.47

日時 昭和3788日(水)14時から1530分まで

本人供述

 4.事件の真相

私は、終戦前から、この事件のあるを予期したので、

終戦直後の約3ケ月位、

気懸かりになった事件の揉み消し策に全力をつくした。

戦中に使っていた腕利きの現住民スパイ約800人を

終戦とともに蘭軍側に協力させた。

・・・・私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であった。

これは慰安婦の中には、

スラバヤから蘭軍(オランダ軍)下士官の妻君5人の外、

現地人70人位をバリ島に連れてきた件である。

下士官の妻君5人は、終戦後直ちに送り返したが、

スラバヤ着と同時に現住民に殺されたとのことであった。

この外にも、戦中の前後約4ケ年間に200人位の婦女を慰安婦として

奥山部隊の命によりバリ島に連れ込んだ。

私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、

70万円を本件の工作資として貰い受け

各村長を介して住民の懐柔工作に使った。

これが完全に効を奏したと見え、

一番心配した慰安婦の県は一件も出なかった。

      以下省略

 

尋問調書にみる証言

1. ◇◇◇◇ 47歳 商人 デンパサ-ル在住

 1941年に(1942年か?)私は日本軍から、

 日本軍兵士のための慰安所を開くように強制されました。

 この種の仕事は私の宗教上禁止されていたので、

 拒否しましたが、無駄でした。

 私自身がこの家に泊まらせた女性たちは自分たちの自由な意思で来ました。

 彼女たちは職業的な売春婦で、全部で約17人でした。

 それからちょうど一年後、7月頃にめてA(被告のこと)によって

 強制されて女性たちが慰安所に連れて来られました。

 彼女たちが強制されていたということは、

 彼女たちが、車から降りて慰安所に入るときに

 泣いていたという事実から明らかでした。

 彼女たちは10人でした。

 彼女たちはAによって1人ずつ車から引きずり出されたので、

 服は引き裂かれていたほどでした。

 それ以降、彼女たちはこの家を離れることを許されず、

 おおむね監禁状態に置かれていました。

     中略

 ・・・・最後に、私は日本人のAからの命令を受け、

 Aが慰安所を監督し、管理していたというこができます。

2.  ◇◇◇◇ 20歳 店員 デンパサ-ル在住

 1942年ごろ、正確な日付は忘れましたが、

 悪名高い日本人Aが私の店にやってきて、

 慰安所に行くように命令しました。

 私が断ると、Aは私の顔を平手で20回くらい殴りました。

 そのため私は口からひどく出血しました。

 数分間、彼は立て続けに私に暴行を加えたので、私は意識を失いました。・・・・

 数日後、Aが私の家に来て、私に警察署に出頭するように命じました。

 警察署でまたAは私に慰安所に行くように命令しました。

 また私は拒否しました。

 するとAは、もし私が拒否し続けると、

 商売を続けることはもはや許されなくなると答えました。

 しかし、私は拒否し続けました。

 そして私は恐かったので、ク-リ-(肉体労働者)として働き始めました。

 

更新日時:2020/07/08 10:29

バタビア裁判・ジョンベル憲兵隊のケ-ス

やはりバタビアで開かれた裁判の一つで、

ジャワ島東部のジョンベルに駐屯していた憲兵隊関係者を裁いた裁判記録です。

「季刊戦争責任研究第83号・林博史論文」を参考にします。

 

まず日本の法務省がまとめた「起訴理由概要」です。

 

和蘭戦争(注:オランダ)犯罪裁判概見表 (日本の)国立公文書館

 和田都重はジャワ島ジョンベル憲兵分隊長にして、

 川田原金之助、今野勝彌、野口武、山本虎夫、半沢勇、

 河端正次、■■■■、石川春雄、橋本一義、小高寛、南良治、

 小野軍次郎、佐々木敏夫、佐藤和義、梅本行雄、太田秀雄、

 ■■■■等は、同分隊員であるが、

 同人等は、昭和174月より、同209月に至る間、

 同分隊または同分隊所属の「ボントウオソ」「バニュウワンギ」等の

 各分遣隊に勤務中、それぞれの在職期間中、

 所属地区に於て多数の一般市民である男女を検挙して、

 その尋問に当り、手拳、竹刀、バット等をもって

 長時間に亘り殴打して出血する障害を与え、

 または、火責め、水責め、或は、

 後手に縛って吊り下げ且故意に飲食物を給与せず、

 飢えしむる等の組織的凶暴及び虐待を加えて

 被検挙者を死に至らしめ以て彼等に対し、

 深刻なる心身の苦痛を与えたが、

 なかんずく和田都重は部下と共謀して

 「シャ-ンポ-ン」と呼ばれる下宿室を慰安所に当て

 オランダ国籍の婦女を同所に収容して日本人相手に売淫を強制し、

 野口武は、婦女「●●●●」に暴行脅迫を加えて、日本人松崎と強制的に性交せしめ、

 ■■■■は、「▲▲▲▲」「■■■■」の2名を強姦し、

 小高寛、梅本行雄は、昭和20824日頃、

 「パニュウワンギ」附近の「カリグラタク」に於て、

 「ア・セ・ツロツコ」及び、「ファンデルツ-スト」の2名を上司の命を受け殺害した。

 

全体としては残虐行為に対する裁判ですが、

憲兵分隊長の和田都重大尉が強制売春つまり

慰安婦になりことを強制した罪で裁かれています。

正式な起訴状中から和田都重大尉に対する部分を書きます。

 

臨時軍法会議付託決定書 1948128日付 

(オランダ語の正本の翻訳)

 1943年頃、即ち戦時中敵国日本の臣民として、

 ジョンベルに於て姓名不詳なるも他の者等と共同し、

 戦時公法及同慣習法に違反し戦犯行為をなしたり。

 即ちシャンボ-ル(バウル)と呼ばれる下宿屋におりし

 和蘭国籍の婦人等に売淫を強制するため、

 日本人による一般に慰安所として知られている

 ジェンベル内の各建物に閉じ込め居住せしめ、

 同慰安所を訪問するすべての日本人の毒牙の餌食になさしめ、

 ために彼女等に劇しき心身の苦痛を蒙らしめたり・・・・

 

裁判の時の尋問調書で、

和田大尉は「慰安所は軍政当局の監督下に開設された」「憲兵隊は関与していない」

と主張していました。

和田大尉は1948911日に死刑判決を受け、

その後逃亡しましたが1025日射殺されました。

 

この裁判の被告一覧表です。

ジョンベル憲兵隊事件被告一覧 和蘭戦争犯罪裁判概見表から

軍種

階級

氏名

求刑

判決

憲兵

大尉

和田都重

死刑

死刑

憲兵

中尉

川田原金之助

20

15

憲兵

中尉

今野勝彌

死刑

死刑

憲兵

中尉

野口武

死刑

無罪

憲兵

准尉

山本虎夫

20

10

憲兵

曹長

半沢勇

死刑

死刑

陸軍

曹長

河端正次

5

5

憲兵

曹長

■■■■

5

5

憲兵

曹長

石川春雄

20

15

憲兵

曹長

橋本一義

20

15

憲兵

曹長

小高寛

死刑

死刑

憲兵

曹長

南良治

死刑

死刑

憲兵

曹長

小野軍次郎

20

20

憲兵

曹長

佐々木敏夫

10

10

憲兵

曹長

佐藤和義

5

無罪

陸軍

一等兵

梅本行雄

20

10

憲兵

曹長

太田秀雄

死刑

死刑

憲兵

曹長

■■■■

自殺

 

 注:2名のみが■になっていますが、理由は不明です。

 

更新日時:2020/07/08 10:38

インド領-アンダマン島

日本海軍が占領した

インド領アンダマン、ニコバル諸島にあった海軍慰安所の資料です。

この資料は法政大学木村宏一郎氏が発見したものです。

海軍の作戦計画の「第2段作戦」の最後に「外縁諸島線」があり、

最西の前線として占領したところです。

戦局が悪化した1943年以降、

これらの諸島を統括するために第29軍が新設され、

3つに区分して統括する事になりました。

その中の第35独立混成旅団の「第12特別根拠地隊」の慰安所資料です。

 

号外 第12特別根拠地隊司令部 昭和20318日 (原文カナ)

当分の間海軍慰安所利用内規を左の通り定む

1 海軍慰安所の管理・経営は海軍司令部において一括之をおこなう     

2 業者は清潔整頓を旨とし、衛生に関しては司令部の指示に従うものとす

中略

4 海軍慰安所を分かちて 鶴ノ家、亀ノ家、松ノ家、竹ノ家及び梅ノ家の5軒とす

5 鶴ノ家、亀ノ家(准士官以上用)に関し左の通り定む

 イ 時間及び料金

 2400以降  1500

 短時間     700銭 2400以前約1時間を標準とす

 ロ 利用者の範囲

(1)海軍准士官以上及び待遇者

(2)判任1等待遇以上の海軍文官、軍属

(3)商社は司令部において許可せられたる者

中間省略

9 各慰安所における料金支払いに関しては左による

 イ 司令部において慰安所使用券を発行し

   これを各隊(挺、部、所)に別に定むる標準により配布す

 ロ 利用者は本券購入(料金は前項所定通り)の上慰安所において相手業者に手交す

 ハ 各隊(挺、部、所)長は右料金を取りまとめ

   別紙様式調書と共に半月ごとに主計長宛送付するものとす

 ニ 業者に対する支払いは毎月1ケ月間における

   稼ぎ高より生活諸費その他を控除の上支給す

 ホ 慰安所内においては現金支払いは一切禁止す

以下略

 

注:1 まさに日本軍のいた所、

     地の果てまで慰安所があった事がわかります。

  2 軍が管理・経営の主体だった事が分かる資料です。

  3 正確な場所は分かっていませんが、

     恐らく南アンダマン島ポ-トブレアだろうと思われます。

     また、慰安婦がどの様な女性だったのかも不明です。

  4 他の記録(回想録等)には、この諸島の他の地域にも慰安所があったことが

     書かれていますが、正確には不明です。

 

更新日時:2020/07/08 10:58

アジア女性基金

1994年、社会党の村山政権が誕生すると、

当時の与党だった社会党、自民党、さきがけの3党で

「戦後50年問題プロジェクトチ-ム」を発足させ、

その下に「従軍慰安婦等小委員会」を設置しました。

1994127日、従軍慰安婦等小委員会の第一次報告が発表されました。

 

与党戦後50年問題プロジェクト従軍慰安婦等小委員会 第一次報告

  1994(平成6)127

  与党戦後50年問題プロジェクト

「従軍慰安婦等小委員会」

1.いわゆる従軍慰安婦問題への取組み

 政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に対する調査の結果、

 かって数多くの慰安婦が存在したことを認めることとなった。

 その実態は、慰安所が当時の軍当局の要請により設置されたものであり、

 慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、

 旧日本軍が直接あるいは間接に関与したものである。

 慰安婦の募集については、

 軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、

 その場合も、甘言、強圧による等

 本人の意思に反して集められた事例が数多くあり、

 さらに、官憲等が直接これに加担したしたこともあったことが明らかになった。

 また、慰安所における生活は、強制的な状況の下で非常に痛ましいものがあり、

 いずれにしても、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけることとなったわけである。・・・・

 私たちは、こうした我が国及び国民の過去の歴史を直視し、

 道義を重んずる国としての責任を果たすことによって、

 今後こうした行為がなくなるようにしたい。

2.なぜ、幅広い国民参加の道を求めるのか

 ・・・本問題は、戦後50年を機会に、今日までの経緯と現実にかんがみ、

 我が国としては、道義的立場から、その責任を果たさなければならない。

 そのため、こうした気持ちを国民ひとりひとりにも、ご理解いただき、

 分かち合っていただくために幅

 広い国民参加の道を求めていこうということなのである。

3.国民参加の道について

省略

1 上記目的のために、国民参加のもとで「基金」について検討する。

省略

4.政府の役割

 政府としては、先の総理大臣談話等によって

 明らかにされた本問題への姿勢を示す意味において、

 「基金」に対し、拠出を含め可能な限り協力を行うべきものとする。

 

1995614日、五十嵐広三内閣官房長官は

基金の構想に関する発表をし、事実上基金はスタ-トしました。

 

「基金」構想と事業に関する発表

1995614

内閣官房長官 五十嵐広三

 戦後50年にあたり、私どもは、我が国の過去において、

 アジアなど内外の人々に耐え難い苦しみを悲しみをもたらしたことを、

 改めて深く反省するところであります。

 とりわけ、従軍慰安婦問題は、多くの女性に癒しがたい苦痛を与え、

 女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、

 私はこの機会に心からお詫びを申し上げる次第であります。

 政府は、平成6年の村山総理の談話、

 与党戦後50年問題プロジェクトの第一次報告に基づき、

 また、69日の衆議院本会議における

 「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」の意をたいして、

 国民の参加と政府の責任のもと、

 深い償いと反省の気持ちをこめて

 「女性のためのアジア平和友好基金」事業を行いことと致しました。

 ・・・・事業を次の通り行うものとする。

 1.元従軍慰安婦の方々のため国民、政府協力のもとに次のことを行う。

(1)元従軍慰安婦の方々への国民的な償いを行なうための資金を

 民間から基金が募金する。

(2)元従軍慰安婦の方々に対する医療、福祉などお役に立つような

 事業を行うものに対し、政府の資金等により基金が支援する。

(3)この事業を実施する折、政府は元従軍慰安婦の方々に、

   国としての率直な反省とお詫び気持ちを表明する。

(4)また、政府は、過去の従軍慰安婦の歴史資料を整えて、歴史の教訓とする。

 2.女性の名誉と尊厳に関わる事業として、前記(1).(2)にあわせ、

  女性に対する暴力など今日的な問題に対応するための事業を行うものに対し、

  政府の資金等により基金が支援する。

 3. 「女性のためのアジア平和友好基金」事業に

  広く国民のご協力を願う「呼びかけ人」として、

  これまでご賛同を得た方々は次の通りである。

「女性のためのアジア平和友好基金」(仮称)

(呼びかけ人)(敬称略、五十音別)

注:発足当時の呼びかけ人リスト

 赤松 良子    元文部大臣

 芦田 甚之助   日本労働組合総連合会会長

 衛藤 瀋吉    東京大学名誉教授

 大来 寿子    大来元外相夫人

 大鷹(山口)淑子  元参議院議員 (李香蘭の本名)

 大沼 保昭    東京大学教授

 岡本 行夫    国際コンサルタント

 下村 満子    朝日新聞元編集委員

 鈴木 健二    熊本県立劇場館長

 須之部 量三   元韓国大使

 高橋 祥起    政治評論家、徳島文理大学教授

 野中 邦子    弁護士、全国人権擁護委員会連合会婦人問題委員長

 三木 睦子

 宮城 まり子   女優、ねむの木学園園長

 宮崎 勇     大和総研理事長

 和田 春樹    東京大学教授

 

このような内容で1995719日に

「女性のためのアジア平和国民基金(通称アジア女性基金)」発足しました。

しかし内容を細かく見ると「国家の道義的責任は認めるが、

法的責任はない」そして「国民から償い金を募る」という内容です。

対象となるのは、台湾、韓国、フィリピンで

同時にインドネシアとオランダが医療福祉の枠で追加されました。

この基金は賛否多くの議論が噴出しました。

 

賛成の意見はこの内容の通りですから良いのですが、批判的な意見は

国がきちんと責任を認めて謝罪と補償をしなければならないのに、

 国民や民間が主体になっている。

支援という言葉もありますが、

 強姦の加害者が謝罪もしないで支援をするというのはおかしい。

「歴史資料を整えて、歴史の教訓」も一切行なわれず、

 逆に教科書から消そうとしている。

 

当然日本の主要マスコミはほとんどこの国民基金を支持する状況でしたが、

韓国・台湾・フィリピンの被害者からは猛烈な反対が起きました。

その後「国家の道義的責任は認めるが、

法的責任はない」とする日本政府の立場は変わっていません。

 

アジア女性基金から元慰安婦へお金が渡される時、

総理大臣からの「おわびの手紙」が渡されました。

 

元慰安婦の方々への内閣総理大臣のおわびの手紙

 1996年~2007年  橋本、小渕、森、小泉の歴代総理が署名

 拝啓

 このたび、政府と国民が協力して進めている

 「女性のためのアジア平和国民基金」と通じ、

 元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、

 私の気持ちを表明させていただきます。

 いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、

 多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。

 私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、

 いわゆる従軍慰安婦として数多くの苦痛を経験され、

 心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、

 心からおわびと反省の気持ちを申上げます。

 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。

 わが国としては、道義的な責任を痛感つつ、おわびと反省の気持ち踏まえ、

 過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、

 いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも

 積極的にも取り組んでいかなければならないと考えております。

 末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、

 心からお祈りしております。

     敬具

 

アジア各地で元慰安婦が名乗り出た時、

「反日的な日本人が焚きつけているのだろう」とか

「金欲しさにでたらめを言っている」等の中傷がありました。

政治家でも慰安婦は「商行為だった」等と侮蔑的な発言が相次ぎました。

政府が認めたことですらこのように文句をつけて抗議をする人がいます。

アジア女性基金はそのあたりのバランスを取ったものといえるでしょう。

女性基金は民間からお金を集めて単に見舞金を出すというもので、

実際は国の責任を逃れて民間に責任転嫁するものです。

被害者がうるさいから金をばらまいて騒ぎを収めるという考えです。

その為多くの被害者は受取りを拒否しました。

被害者が要求しているのはお金ではなく、

日本政府の調査・謝罪・補償だからです。

加害者の方が一方的に金を投げて、

これでいいだろうというのは世の中では通らないでしょう。

加害と被害があったとき、

被害者から要求した内容に即したり交渉するのが世の中の常識です。

 

結局アジア女性基金、20073月に解散し、365人に「償い金」を届けたとのです。

 

国民基金は終了しましたが、問題も残りました。

アジア各地でやっとの思いで名乗り出た元慰安婦の方々の現在の境遇は様々です。

国の謝罪を伴う保証がなくても、

目の前にお金をばら撒かれれば生活に困窮している人は

どうしても受け取ってしまいます。

しかも脅かしにも近い形で無理やりお金を渡したのです。

仕方なくお金を受け取ってしまった被害者、

あくまでも日本政府に謝罪を要求する被害者・・・・

揺れ動く心の狭間で被害者の団体が分裂してしまった例もあります。

日本政府が中途半端なことをしたために、

かえって被害者に心の負担を増やしてしまったのです。

日本の姿勢が問題をこじらせたために、

アジアの各国政府は女性基金を拒否する方向で動きました。

次からはアジア女性基金を巡る該当国の対応です。

アジア女性基金のデジタル記念館の資料を参考にします。

 

更新日時:2020/07/08 11:02

アジア女性基金・インドネシア

日本とインドネシアの間には1958年に平和条約と賠償協定が結ばれ、

賠償と請求権問題は一応解決したことになっています。

1992年に慰安婦問題が注目を集め証言者が出始めました。

法律扶助協会や元兵補連絡フォーラムなどが登録を始めました。

日本と協議の上インドネシア政府は見解を発表しました。

 

インドネシア政府の見解  19961114

 「慰安婦」問題はインドネシア民族にとって

 その歴史の中で忘れ難い暗い側面であり、

 将来繰り返されることのないよう注意を払い、教訓とする必要がある。

 また、この暴力の犠牲となった女性の

 終わることのない精神的かつ肉体的な苦渋、痛みを理解している。

 しかしながら、パンチャシラ哲学を有する民族として、

 感情的要素が強い措置及び施策に向わないように、

 また犠牲となられた女性の方々及びご家族等の名誉を守ることに尽力している。

 インドネシア政府は、1958年に締結された

 「日本国とインドネシア共和国との間の平和条約」と

 「日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定」によって

 日本政府との賠償並びに財産及び請求権の問題は解決済みとの認識である。

 アジア女性基金がインドネシアにおいて行う

 「慰安婦」問題に関わる事業・援助は

 インドネシア政府(特に社会省)を通じて行われるべきであり、

 他の組織や個人を通じて行われることはない。

 

この結果199612月に、基金派遣の役員との話し合いの結果

「高齢者福祉施設」整備事業等への支援を行うこととしました。

1997321日、橋本総理大臣はスハルト大統領におわびの手紙をおくり、

総額38000万の支援が始まりました

インドネシアの慰安婦や支援団体はこのことに反対し

被害者個人に事業をして欲しいと要求しましたが受け入れられず、

結局慰安婦が優先的に入居できる施設が数ヶ所出来ました。

20071月事業は完了しました。

 

更新日時:2020/07/08 11:04

アジア女性基金・台湾

第二次世界大戦終了、

国共内戦に敗れた中華民国(国民党政府)は台湾に渡りました。

1952年、日華平和条約が結ばれ、

台湾の中華民国は日本に対する各種請求権を放棄しました。

但し植民地としての台湾にかかる請求権処理は

別に交渉が行われることになっていました。

しかし1972年、日本は中華人民共和国と国交を正常化したため長いこと断絶しました。

1992年、台湾の立法院(注:国会)・婦援会(婦女救援福利事業基金会)等が

「慰安婦問題処理委員会」を発足させました。

 

委員会の委託で婦援会は次の事業を始め、慰安婦対応の中核組織となりました。

1 慰安婦の認定作業

2 個人情報の管理

3 当局からの生活支援金の給付代行

 

19973月、「萬国法律事務所」を窓口に

新聞掲載で慰安婦からの受付を始めました。

その後台湾では政府やNGO等の6者が協議して

慰安婦問題に対処していますが、

日本の国民基金には基本的に反対でした。

日本に対する対抗措置として199712月、

日本政府から正式に補償が実行されたら

返済する立替え金という名目で42人の被害者に

台湾政府から200万円、NGOから募金で集まった200万円が支給されました。

2002年の現地報道では、生存している慰安婦は36名で、

台湾当局から15,000(6万円)が月々生活支援金として支給されています。

結局アジア女性基金からの償い金は13人が受け取ったとされています。

(20142月和田春樹東大名誉教授・元基金運営委員長)

 

 

更新日時:2020/07/08 11:35

アジア女性基金・韓国

韓国では1996年、39団体と19人の国会議員が中心となって

「強制連行された日本軍従軍慰安婦問題解決のための市民連帯」が

大募金運動を始めました。

その後1997111日にアジア女性基金の金平輝子理事長の代表団が

償い金や総理からの手紙を7人の元慰安婦に渡しました。

しかしアジア女性基金が抜き打ちに支給したために問題がこじれ、

女性基金の活動をしていた臼杵敬子氏を入国禁止とし、

更に199826日、

韓国の被害者や市民団体、韓国政府への事前の了解もなく、

日本が韓国の新聞に「償い金」支給の全面広告を出した事から

猛反発を受けました。

 

韓国における事業実施に関する新聞広告文

   ハンギョレ新聞、韓国日報など4紙  199826

「基金事業の概要説明」

 女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)は、

 先の戦争において、「従軍慰安婦」とされて名誉と尊厳を傷つけられ、

 心身にわたり癒しがたい傷を負われた方々に対するお詫び深い反省に立脚して、

 19957月、日本政府と国民の協力により発足しました。・・・・

 このような考え方に共鳴する多数の日本国民から、

 これまで48千万円の募金が真心のこもったメッセ-ジとともに

 アジア女性基金に寄せられています。

 また、日本政府は、アジア女性基金の活動を財政面を含め、

 全面的に支援するとともに、基金の事業が行われる折り、

 日本政府を代表しこの問題に関して改めてお詫びの気持ちを表す

 内閣総理大臣の手紙を元慰安婦の方々お一人お一人にお届けしています。

 アジア女性基金は、発足以来、元慰安婦の方々や関係者の方々との対話を積み重ね、

 これまでに、韓国、フィリピン等において全体で総計100名を超える申し込みがあり、

 50名余りの元慰安婦の方々に基金の事業を受け入れて頂いております。

 しかし、残念なことに、本基金の事業について、未だにさまざまな誤解や憶測があり、

 十分に理解されていないのも事実です。

 今回、先ずもって本基金設立の趣旨や事業の内容を

 皆様に正確に知っていただくことが重要と考え、

 この広告を出しました。

以下略

女性のためのアジア平和国民基金理事長 

原文兵衛(元参議院議長)

「従軍慰安婦にされた方々にお届けするもの」

 1 日本国内閣総理大臣の手紙

 日本国民の償いの気持ちを表す「償い金」をお渡しする際に、

 日本政府を代表して、

 改めてお詫びと反省の気持ちを表す内閣総理大臣の手紙が届けられます。

 2 償い金

 日本国民の償いの気持ちを表すものとして、

 日本国民からの募金を原資に元慰安婦の方々に

 1人当たり200万円を「償い金」としてお渡しします。

 3 医療・福祉支援事業

 日本政府が道義的責任を誠実に果たすため、政府からの拠出により、

 元慰安婦の方々が利用される財・サ-ビスを提供します。

 具体的には、住宅改善、介護サ-ビス、医療・医薬品補助等、

 ご本人のおかれた実情とお気持ちに沿って実施されます。

 この事業は、元慰安婦の方々に1人当たり、

 初年度に228万円、2年度から5年度に各18万円、

 合計5年間で300万円規模で実施されます。

 4 その他

 以上に加え、「償い金」をお届けする際、

 アジア女性基金への募金とともに寄せられた日本国民のメッセ-ジ、

 そして、日本国民の償いの気持ちと「基金」事業の趣旨を明らかにした

 原文兵衛理事長の手紙をお届けします。

 

この新聞広告への反発から、NGO「韓国挺身隊問題対策協議会」が中心となり

反対運動や調査活動をリ-ドしました。

同時に「女性基金」に反対して募金運動が始まりました。

そして19983月に金大中政権が誕生し、

5月に「韓国政府として日本政府に国家補償を要求することはしない」

「その代わりアジア女性基金からのお金は受け取らない」と発表しました。

「アジア女性基金からは受け取らないと誓約する元慰安婦142名には

生活支援金3150万ウォン(310万円)

韓国挺身隊問題対策協議会が集めた418万ウォンを支給することになりました。

当初基金からお金を受け取った7名と誓約しなかった4名には支給されませんでした。

2004年までに韓国政府は207人の慰安婦を認定しました。

結局韓国政府は基金を受け取らない事を条件に

一人当たり約300万円の一時金と毎月5万円の生活支援金の支給を開始したのです。

事実上基金は凍結され、1999年アジア女性基金の事業は終了しました。

詳しい結果報告は出されていませんが、

201412月現在韓国政府に登録された

元慰安婦の総数は237人、生存者は55人、

日本からの「償い金」と「書簡」を受け取った人は60人とのことです。

 

更新日時:2020/07/08 11:43

アジア女性基金・フィリピン

戦後フィリピンは、サンフランシスコ平和条約に調印した上で、

先の大戦に関わる賠償並びに財産及び請求権の問題は、

日本とフィリピンの間で法的に解決済みとしてきました。

そのため慰安婦問題も表面化しませんでしたが、

19926月にラジオ放送を聞いた

ロサ・ヘンソンさんが最初に元慰安婦であることを名乗り出て、

人権活動家のネリア・サンチョ氏等に会ったことから表面化しました。

ネリア・サンチョ氏はその後他の被害者からも聞き取りを始め、

被害者であるロラ(注:現地語でおばあちゃん)達は

19934月日本政府を訴えました。

原告は最終的に46名になりました。

1994年にはこれら被害者は「リラ・ピリピ-ナ」というNGOを立ち上げました。

アジア女性基金が始まると基金からの受取をめぐって

「リラ・ピリピ-ナ」が分裂し、2003年現在3つの団体ができています。

1996813日、アジア女性基金はフィリピンの各新聞に基金の内容を公示しました。

 

フィリピンにおける事業開始に関する新聞広告文

 女性のためのアジア平和国民基金は、

 このたび、先の大戦中に「慰安婦」とされた

 フィリピンの犠牲者の方々への道義的責任を果たすため、

 国民の償いの気持ちを表す一時金のお届けをいたします。

 なお、一時金をお届けする方に対して、

 日本国内閣総理大臣の手紙が届けられることになります。

 また、プライバシ-は保護されます。

 1 対象

 1995719(女性のためのアジア平和国民基金の設立日)現在

 ご存命の「従軍慰安婦」とされた犠牲者の方および

 その遺族(配偶者及び子)の代表者の方で、

 正規の手続きを経て認定された方

 2 受付期間  このお知らせの日より5年間

 以下省略

 

アジア女性基金としては「償い金」一人当たり200万円、

医療・福祉支援事業に120万円を支払いました。

期間は1996813日~2001812日です。

814日、認定を受けた4人の内3名に

アジア女性基金から「償い事業」の伝達式が行われました。

受け取った3名は次の方々です。

ロサ・ヘンソン

アナスタシア・コルテス

ルフィナ・フェルナンデス

その後も認定作業は続き、

基金側の説明では償い金を受け取った方も含め

結局211人が受け取ったとされています。

(20142月和田春樹東大名誉教授・元基金運営委員長)

 

そして200011月、フィリピンではあらためて、

日本に謝罪と国家補償を求める決議が上下両院に提案されました。

 

更新日時:2020/07/08 11:55

アジア女性基金・オランダ

オランダは一応サンフランシスコ平和条約の第14条に基づいて

請求権を放棄しました。

しかし同時に捕虜になって苦難を受けた人に対しては

16条を適用して日本政府は国際赤十字を通じて

一定の支払いが行われました。

しかし民間抑留者は承服しなかったため、

195197日と8日、

スティッカ-外相と吉田茂首相との往復書簡で話し合い、

結論を出しました。

 

「往復書簡の結論」

 第14条ではオランダ国民の請求権が消滅したことにはならない

 日本政府が自発的に処置する私的請求権が存在する

 

その結果1956313日、

「オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する」

日蘭議定書が結ばれました。

そして自発的に1000万ドルを見舞金として提供しました。

 

アジア女性基金ができる前の1993年にオランダ政府は

「日本占領下オランダ領東インドにおける

オランダ人女性に対する強制売春に関する

オランダ政府所蔵文書調査報告」を出しています。

その中には「日本軍の慰安所で働いていたオランダ人女性は

200人から300人に上るが、うち65人は

売春を強制されたことは絶対確実である」と書かれています。

このような経緯があるためアジア女性基金が出来た時、

オランダ政府としては直接日本政府と話し合いをせずに、

JES(対日道義的債務基金)が窓口になり日本側と話し合いをしました。

1998年、JESを更に発展させた

組織PICN(オランダ事業実施委員会)の代表

ハウザ-将軍とアジア女性基金の山口達男副理事長との間で

覚書が交わされました。

同じ日に橋本総理はオランダのコック首相におわびの手紙を送りました。

 

従軍慰安婦問題に関する女性のためのアジア平和国民基金と

   オランダ事業実施委員会との間の覚書

 ・・・・先の大戦中にオランダ人女性が

 いわゆる「従軍慰安婦」として数多くの苦痛を経験され、

 心身にわたり癒しがたい傷を負わされたことを認識し、

 また、心身にわたり被害を受けたこれらのオランダ人女性が

 高齢に達していることを認識して、

 これらの女性の生活状況の改善を希望して、以下のとおり合意した。

 第1    事業の目的

 基金は「従軍慰安婦」問題に関し日本の償いの気持ちを表すために、

 委員会が実施する先の大戦中に心身にわたる被害を受けた

 オランダ人戦争被害者の生活状況の改善を支援する事業に対し、

 財政的支援を行うものとする。

 第2    省略

 第3    資金の提供

1 基金は、事業実施要領に従い、事業の実施に必要な資金として

   事務経費を含む総額255百万を上限とする資金を

   事業実施期間中に委員会に供与する。

以下少略

 

その結果は次のようになりました。

 期間 1998715日~2001714

 内容 医療・福祉分野の財・サービス提供 24500万円規模

 

橋本内閣総理大臣がオランダ国コック首相に送った手紙

    1998年(平成10年)715

    内閣総理大臣 橋本龍太郎

 我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、

 道義的な責任を痛感しており、

 国民的な国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている

 「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、

 この問題に対し誠実に対応してきております。

 私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、

 当時の軍の関与下に多数の女性の名誉と尊厳を

 深く傷つけた問題と認識しており、

 数多くの苦痛を経験され、

 心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し

 心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを

 貴首相にお伝えしたいと思います。

(中略)

 日本国民の真摯な気持ちの現れである

 「女性のためのアジア平和国民基金」の このような事業に対し、

 貴政府の御理解とご協力を頂ければ幸甚です。

 我が国政府は、

 1995年の内閣総理大臣談話(注:村山談話)によって、

 我が国が過去の一時期に、

 貴国を含む多くの国々の人々に対して

 多大の損害と苦痛を与えたことに対し、

 あらためて通説に反省の意を表し、

 心からお詫びの気持ちを表明いたしました。

 現内閣においてもこの立場に変更はなく、

 私自身、昨年6月に貴国を訪問した際に、

 このような気持ちを込めて旧蘭領東インド記念碑に献花をを行いました。

(中略)

 我々は、過去の重みからも未来への責任からも

 逃げるわけにはまいりません。

 我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、

 2000年には交流400年を迎える貴国との友好関係を

 更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。

 

更新日時:2020/07/08 13:02

終わりに

国民基金に対する対応は国によっても異なりますが、

韓国と台湾の場合は日本の植民地であった経緯もあり

「被害者への生活支援やケアは自分たちでするから,

日本は真摯の反省のもと、

日本政府にしか出来ない公式謝罪と

国家としての保障を行うべきである」という考えが強いようです。

 

国民基金が残した問題点を少し整理します。

*国家による正式謝罪ではないこと

*被害者が求めた形ではなく、日本政府が勝手に決めたこと

*強引な支給で被害者が分裂したこと

*日本社会の本質的な意識改革につながらなかった

*国際社会特に国連からは認められなかった

*支給地域を限定したこと

 

河野談話を出す際の調査で、「内閣官房内閣外政審議室」は

慰安婦の出身地を日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、

インドネシア及びオランダの7ケ国としました。

そのためビルマ、マレ-シア、ミクロネシア、

東チモ-ル等から元慰安婦だった女性が名乗り出ても

すべて無視されました。

 

北朝鮮は19925月に

 「北朝鮮政府の被害調査委員会」が調査を開始し、

 2000年現在被害者数218名、証言者48名とされていますが、

 国交がない為無視されています。

 

国民基金の組織や運営にも多くの問題が指摘されています。

*対象になっていない国も含めて

 慰安婦がどのくらい存在したのかの調査がされていない

*国・地域別の名乗り出た元慰安婦と受取者の

 数が正式に公開されていない

*民間からの募金で56500万円が集まったとされているが、

 明細が発表されていない。      

 連合をはじめとした労働組合のカンパが中心とうわさされている。

*募金総額が当初の目標より多かったのか、

 少なかったのかも発表されていない

*集まった募金の内、どのくらい経費がかかったのか、

 どのくらい「償い金」になったのかが発表されていない。

*オランダだけは募金のお金ではなく、

 外務省資金(国費)で支払われているのは何故か?

 国費で支払えるのならば、最初から全部国費にするべきだった。

 

このような状態で国民基金は成功した、或は日本の謝罪は終了したといえるのでしょうか?

 

しかし国家間の現実問題として、

河野談話やアジア女性基金がたとえ不十分なものであっても、

韓国を始めとしたアジア諸国では

現在の日本の立場としては最大限の謝罪だと好意的に解釈したのも事実でしょう。

ですから追求よりもこのあたりで鉾先を収めて

国家間の良好な関係を発展されることに重点を置き、

双方の国家が前向きに努力する方針としました。

日本はその後表面上は謙虚にし、

経済や文化交流が進み日韓関係は良好でした。

しかし一部のマスコミ、ジャ-ナリスト、文化人、政治家は

慰安婦問題を否定し続け、

最近特に政治家や政府で目立っています。

 

●201515日、アメリカ国務省のサキ報道官は

 記者会見で次のような内容の話をしました。

 *村山富市首相と河野洋平官房長官が示した謝罪は、

  日本が近隣諸国との関係を改善しようと努力する中で重要な一章を刻んだ。

 *日本には近隣諸国と引き続き協力し、

  対話を通じた友好的な方法で歴史をめぐる懸念を解消するよう促す

 

これは河野談話を否定する最近の日本政府やマスコミの傾向に

アメリカが釘をさしたものと思われます。

 

更新日時:2020/07/08 13:19

 

追加 談話・会談資料等

追加として、今回のテ-マ-(慰安婦問題)とは直接関係ありませんが、

その後の日本政府と韓国、北朝鮮との和解に向けた

会談などをの資料を参考までに記載します。

 

「日韓共同宣言-21世紀に向けた新たな日韓パ-トナ-シップ」

1998108

金大中韓国大統領訪日会談

両首脳は、「21世紀の友好協力関係のため、

両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づく関係の発展が重要」

と意見の一致をみた。

小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、

我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により

多大な損害と苦痛を与えたという歴史的事実を

謙虚に受け止め、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。

金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、

これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて

和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるために

お互いに努力することが時代の要請である旨表明した。

また、両首脳は、両国国民、特に若い世代が

歴史への認識を深めることが重要であることについて見解を共有し、

そのために多くの関心と努力が払われる必要がある旨強調した。

日本国内閣総理大臣  小渕恵三

大韓民国大統領    金大中

 

「日朝平壌宣言」

両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、

実りある、経済、文化的関係を樹立することが、

双方の基本利益に合致するとともに、

地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した。

1.双方は、この宣言に示された精神及び基本原則に従い、

 国交正常化を早期に実現させるため、

 あらゆる努力を傾注することとし、

 そのために200210月中に日朝国交正常化交渉を再開することとした。

 双方は相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、

 日朝間に存在する諸問題に誠意を持って取り組む強い決意を表明した。

1.日本側は、過去の植民地支配によって、

 朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を

 謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。

 双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して、

 国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、

 無償資金協力、低金利の長期借款供与及び

 国際機関を通じた人道主義的支援の経済協力を実施し、

 また、民間経済活動を支援する見地から

 国際協力銀行等による融資、信用供与等が実施されることが、

 この宣言の精神に合致するとの基本認識の下、国交正常化交渉において、

 経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。

 双方は、国交正常化を実現するにあたっては、

 1945815日以前に生じた事由に基づく

 両国及びその国民のすべての財産及び請求権を

 相互に放棄するとの基本原則に従い、

 国交正常化交渉においてこれを具体的に協議することとした。

 双方は、在日朝鮮人の地位に関する問題及び文化財の問題については、

 国交正常化交渉において誠実に協議することとした。

1.双方は、国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。

 また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案事項については、

 朝鮮民主主義人民共和国側は、

 日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が

 今後再び生じることがないよう

 適切な措置をとることを確認した。

1.双方は、北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため、

 互いに協力していくことを確認した。

 双方は、この地域の関係各国の間に、

 相互の信頼に基づく協力関係が構築されることの重要性を確認するとともに、

 この地域の関係国間お関係が正常化されるにつれ、

 地域の信頼醸成を図るための枠組みを

 整備していくことが重要であるとの認識を一にした。

 双方は、朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、

 関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した。

 また、双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、

 関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を認識した。

 朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に従い、

 ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく意向を表明した。

 双方は、安全保障にかかわる問題について協議を行っていくこととした。

日本国 総理大臣 小泉純一郎

朝鮮民主主義人民共和国 国防委員会 委員長 金正日

2002917日 平壌

 

「戦後60周年内閣総理大臣談話(小泉談話)

私は、戦後六十年を迎えるに当たり、

改めて今私たちが享受している平和と繁栄は、

戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の

尊い犠牲の上にあることに思いを致し、

二度と我が国が戦争への道を歩んではならないとの決意を

新たにするものであります。

先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、

家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、

あるいは、戦後遠い異国に地に亡くなられています。

また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、

多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して

多大の損害と苦痛を与えました。

こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、

改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、

先の大戦における内外の全ての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。

悲惨な戦争の教訓を風化させず、

二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。

戦後我が国は、国民の不断の努力と多くの国々の支援により廃墟から立ち上がり、

サンフランシスコ平和条約を受け入れて国際社会への復帰の第一歩を踏み出しました。

いかなる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を貫き、

ODAや国連平和維持活動などを通じて世界の平和と繁栄のため

物的・人的両面から積極的に貢献してまいりました。

我が国の戦後の歴史は、まさに戦争への反省を行動で示した平和の六十年であります。

我が国にあっては、戦後生まれの世代が人口の七割を超えています。

日本国民はひとしく、自らの体験や平和を志向する教育を通じて、

国際平和を心から希求しています。

今世界各地で青年海外協力隊などの多くの日本人が平和と人道支援のために活躍し、

現地の人々から信頼と高い評価を受けています。

また、アジア諸国との間でもかつてないほど

経済、文化等幅広い分野えの交流が深まっています。

とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、

ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。

過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた

未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています。

国際社会は今、途上国の開発や貧困の克服、地域環境の保全、

大量破壊兵器不拡散、テロの防止・根絶など

かつては想像もできなかったような複雑かつ困難な課題に直面しています。

我が国は、世界平和に貢献するために、不戦の誓いを維持し、

唯一被爆国としての体験や戦後六十年の歩みを踏まえ、

国際社会の責任ある一員としての役割を積極的に果たしていく考えです。

戦後六十年という節目のこの年に、平和を愛する我が国は、

志を同じくするすべての国々とともに

人類全体の平和と繁栄を実現するため全力を尽くすことを改めて表明します。

平成17815

内閣総理大臣 小泉純一郎

 

「日韓併合100年内閣総理大臣談話(菅談話)

  平成二十二年八月十日  

本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。

ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、

以降三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。

三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、

政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、

その意に反して行われた植民地支配によって、

国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。

私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。

歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、

自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。

痛みを与えた側は忘れやすく、

与えられた側はそれを容易に忘れることはできないものです。

この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、

ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。

このような認識の下、これからの百年を見据え、

未来志向の日韓関係を構築していきます。

また、これまで行ってきたいわゆる在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の

遺骨返還支援といった人道的な協力を

今後とも誠実に実施していきます。

さらに、日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされ、

日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、

韓国の人々の期待に応えて近くこれらをお渡ししたいとおもいます。

日本と韓国は、二千年来の活発な文化の交流や人の往来を通じ、

世界に誇る素晴らしい文化と伝統を深く共有しています。

さらに、今日の両国の交流は極めて重層的かつ広範多岐にわたり、

両国の国民が互いに抱く親近感と友情はかってないほど強くなっております。

また、両国の経済関係や人的交流の規模は国交正常化以来飛躍的に拡大し、

互いに切磋琢磨しながら、その結びつきは極めて強固なものとなっています。

日韓両国は、今この二十一世紀において、

民主主義や自由、市場経済といった価値を共有する

最も重要で緊密な隣国同士となっています。

それは、二国間関係にとどまらず、将来の東アジア共同体の構築をも念頭に置いた

この地域の平和と安定、世界経済の成長と発展、

そして、核軍縮や気候変動、貧困や平和構築といった地球規模の課題まで、

幅広く地域と世界の平和と繁栄のために協力して

リ-ダ-シップを発揮するパ-トナ-の関係です。

私は、この大きな歴史の節目に、日韓両国の絆がより深く、

より固いものとなることを強く希求するとともに、

両国間の未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意を表明いたします。