平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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②型にはまるという悪弊

独創的でない、平凡、決まり切った内容に沿う、というような意味で使われるのが「型にはまる」しかし、コロナ禍とされる状況でこの言葉を使ってみると、少しニュアンスが変わるような気がする。

 

コロナ禍とされるもので、型という言葉をイメージしてみる。マスク、PCR、ワクチンが3つの主要な型。この三つを錦の御旗に掲げ、皆でこの型にはまる。何も考えない、何も調べない、すべて受け入れる、もう一方のこの三つの方針を元にコロナ禍に対応する。すると普通に安心を得られ、最大公約数にぶら下がることに成功する。間違っても目立ち過ぎて他人から白い目で見られることはない。安全か危険か? 型にはまってるのに、危険な訳ない、皆が助かる方向に行ってるのに決まってる・・・

 

とは、残念ながらそうはいかない。今回のコロナ禍は、これまで何度も書いてきたが、簡単に言えば詐欺だからだ。フーミッヒ弁護士が主導した世論裁判、グランドジュリーの要約、これだ。

 

hirayamax.hatenablog.com

 

これを読めばまず間違いなく理解できる。と、紹介しても恐らく、殆どの人は読まない。なぜなら型にはまっていないからだ。世間の大方は、まずテレビ、そして政府、新聞、テレビに出てる専門家、コメンテーター、医師会、病院などを基本的に信頼できる一般的な「型」として認定している。そしてその「型」の中にはまることで安心を得ようとする。それ以外のものは面倒なのか主流でないと考えるのか、振り向きもしない。

 

少し脱線してみよう。医師会や病院は本当に信頼できる「型」だろうか? ここにこの傾向に完全に相反する者がいる。私だ。私事をものすようで申し訳ないが、興味が少しでもある人は読み続けてもらいたい。まず、医師会や病院というものを「私」は一切信用しない。むろん生まれてこの方ではなく、大体20代後半頃から信用しなくなった。きっかけがある。

 

母方の親戚が急に亡くなった。脊髄造影という検査をした後、重い副作用ですぐに寝たきりになり、ほんの数日で亡くなってしまったのだ。ご家族も全く腑に落ちない。話を聞いて、私も病院に訪ねてみて、色々と聞いてみた。その時、非常に驚いた。全く何も説明しない。どういう理由で体調が急に悪化したのか、なぜ検査の後、すぐに亡くなってしまったのか、一切説明しない。説明しないばかりでなく、迷惑そうにするだけ。検査を受ける前に、稀に死亡するリスクもあるという同意書を取っているので、それを見せて免責の説明をするだけだった。

 

結局、体調悪化と死亡の原因の説明は一切されずじまいだった。病院というのは何と無責任なものかと驚愕したものだ。この検査をしなければ、この親戚は、たとえ病状の回復を得られなくても、他の方法で回復したかもしれない。自然療法の工夫もできたかもしれない。何より、寝たきりにならなかったはずだ。それを根こそぎ命ごと奪われてしまった。

 

以来、基本的に病院というもの、それと今のいわゆる西洋医学というものを信用しなくなった。病院には殆ど行かず、薬も飲まず、治療もしない。自然治癒力をメインにほったらかしで済ます。考えてみれば高校の頃も、原っぱでサッカーをしているときに、雑草に隠れていた直径15センチくらいの石を思い切り蹴ってしまい、足の親指が陥没したことがあった。腫れ上がってめちゃくちゃ痛い。それでも何の治療もしなかった。半年ほど足を引きずって歩いていた。ほっとけばその内治るだろう、と勝手に決め、結局、ほぼ完治まで何十年もかかった。今は、少し曲がりにくいが、普通に歩けている。

 

健康診断も受けないし、癌検診も一回も受けてない。健康診断は小中高と強制みたいなものだったが(大学時代はどうだったか忘れた)、成人してからも、就職で受けざるを得ない時を除き、自営業のときは全く受けなかった。健康診断に全く意味を感じなかったし、癌検診も、まぁその内、気が向いたら、と思っていたら、とうとう一度も受けずに今日に至ってる。

 

むしろ、日常のメインテナンスを重視してきたつもり。若い頃は結構ムチャもしたが、そこそこの年齢になってからは、睡眠、運動、栄養の管理をきちんとすることでほぼ大丈夫だった。今も、全く病院に行かない。だから、コロナのワクチンも全然信用しない、ということに繋がったのかもしれない。むろん随分克明に調べ、マスクもPCRもワクチンも全部ウソだと理解し、回避することができた。

 

長い脱線をしてしまった。

 

「型にはまる」という言葉に関連することで書いていた。型にはまる、ということに違和感があり、多くの人が当たり前と思ったり、当然だと考えたりすることに対して、そう簡単に信用するということにならない。割合、小さい頃からそういう習慣があったように記憶している。なぜなのか分からない。けっこう無鉄砲な所があったのかもしれない。今は打って変わって非常に慎重に行動するようにしているが。(いや、友人によると、まだまだお前は何考えてるかわからん、よーそんな好き勝手できるな、と言われたりする)

 

この「型」というのがくせ者。大体が世間ではこうなってるとか、こういう場合はこの対応が当たり前とか、これは安心だからやっておいて大丈夫とか、とにかく、どんなことでも確認しないまま、調べないまま、そのまま受け入れる、言うことを聞く、というのは危ない。世間が言ってること、新聞が書いてること、政府が言うこと、テレビが言うこと、専門家が(ニセが多い)言うこと、エライ先生、エライ弁護士、ともかくエライ資格の人、めちゃくちゃ有名なガッコーの大学教授などなど、ともかくこれは超一流や、とか言われても、絶対信用しない。その方が安全だということを、何故か割合若い頃から感じていた。今は、石橋を巨大なトンカチでたたき壊して鉄橋をかけ、その鉄橋の強度検査を徹底的にやらないと、渡らない、という発想になっている。つまり、基本的に誰の言うことも信用せず、自分で考え情報を集め、自分で判断する、という方針だということ。

 

しかし、これは考えてみれば、ものすごく当たり前のことだと思う。私には不思議でならない。マスクを着けろと言われたら、一人残らず全員でマスクを着ける。息苦しくても頭痛がしても、私みたいに頻脈と目眩で失神しそうになっても我慢して着ける? ありえない。PCR検査などという感染症検査には全く使えず、綿棒にセラグリッパーという超微細なナノテクまでふりかけられてるような危ない検査など受けれる訳がない。おまけに陽性反応って出たら何の病気でもないのにエライ迷惑を被ることになる。ワクチンなどもってのほか、ありえない。中身が何なのか、何が入ってるのか分からない、(もう充分調べたので今は私は分かってるが)そういう段階で、目をつぶって何だかわからないモノを自分の体に入れるなど、絶対に出来ない。それが普通だと思うのだが、昨今の日本での風潮はそうなっていないようだ。本当に不思議だ。

 

本当に、せめて子供たちだけでも助けたい。何とかして、危険性を伝えたい。今後の未来は子供たちの健康と命にかかっている。大人はもうどうにもできない。いくら伝えてもザルに水。がんばるだけ空しい。子供たちはまだ可能性がある。直観力も大人より高い。もう少しがんばってみようと考えている。