平山栄一記録簿  想哲理越憂愁     

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父について

私は在日韓国人として日本で生を受けました。父親は一世、母親は二世だったので、私は二世半とでも言うべき立ち位置でしょうか。

 

父親は大変苦労することがあったと推察しています。少し書きます。

 

8人兄弟の末っ子だったそうで、韓国の慶尚北道で生まれ育ちました。学校は小学校4年まで行けたそうですが、その後は教育制度との関わりはありませんでした。あまりにも貧しすぎたということだと思います。当時は韓国は、というより当時は朝鮮でしたが、日本に占領されてました。朝鮮総督府は属国の子供たちにまともな教育を施そうというつもりは無かったのでしょう。朝鮮語が禁じられ、日本語の勉強をさせられ、三等国民としてあらゆる迫害と弾圧が続いていた頃でした。農家だったそうですが、土地収奪制度のため生活がとても厳しくなり、家を出たそうです。この土地収奪制度に関して、日本では未だにまともな精査は行われておらず、むしろ「朝鮮のためになった論」をまぶした内容の記録しかありません。

 

父が家を出たと書きましたが、出されたと言った方がいいかもしれません。親戚中をたらい回しされた上、中学生相当の年齢くらいになると自分で職探し、自活といった状況になったと推察してます。あまり当時のことを父は語りませんでした。

 

一度、父から、満州にも行ったことがある、という話を珍しくしてくれたので、当時中学生だった私は、へー、満州で何をしてたの? と聞くと、途端に苦々しい表情になり、しばらく黙っていたかと思うと、

 

「軍属じゃ」

 

と吐き捨てるように言葉を絞り出しました。軍属というのは軍隊に付属する各種の職業が関与するサポート部隊のようなものです。途切れ途切れに話す父の話を総合すると、衣服を製造する職務として、その機関で働いたようです。おそらく、軍服の製造などに関わったのではないかと思われます。むろん、本意ではなく、生きるために仕方なく就いた職でした。

 

父は日本をひどく憎み、軽蔑していました。日本から占領されていた時期に生まれ、出生から25年も三等国民として生きてきた訳です。その事実だけをもってしても、いかに残酷な少年期青年期であったことか。私には想像することすら出来ません。

 

道路を普通に歩いていて、日本の軍人からいきなり殴り倒されたことがあったそうです。また、意味もなくライフル銃を突きつけられ、殺されそうになったことも。

 

この二つの話を聞いたとき、ふ~ん、けっこう大変な目に遭ったんだなぁ、という印象を受けましたが、未熟な私にはそれがどういう意味なのかよく把握できてませんでした。その話を聞いて数十年経過した後、「戦場のピアニスト」というナチスによるユダヤ人迫害のテーマの映画を観たときに、あ、父の受けた苦労というのはこういう状況の中で起きたことだったのか、と理解しました。いつ命を害されるかもしれない、圧倒的な侮辱と弾圧の中で生活し続けるしかなかったという事実に初めて気づいたのです。私自身の想像力理解力の乏しさには呆れます。何とも情けない話です。

 

韓国独立運動では3.1独立運動がよく知られてます。(と言っても殆どの人は知らないでしょう。教科書でもまず全く正確な史実を詳説されることはありませんから)父はこの事件のほんの少し後に生まれてます。1920年代にも1930年代にも独立運動は続いてます。すさまじい弾圧の中で、虐殺、虐待、強姦、拷問なども数限りなく起きてます。むろん日本の教科書では載せられません。父は幼年期をそのような時期に過ごしたということになります。

 

そういった歴史をつぶさに見聞きしてきた父が、日本を憎み軽蔑するのは当然のことだと今は感じています。沖縄の人達が内地を嫌う、日本を嫌うという心情を持つことが多い、特に年配の人に多いのは、この韓国の歴史に通じる所があるのだと思います。

 

沖縄でも戦争中、学徒動員と称して中学生までも戦場に送り、戦車を爆破する特攻兵としたり、多くの沖縄の人達を日本軍が殺したりする史実があります。そういうことを知る沖縄の人達は日本を信用できないだろうと思います。父も全く日本を信用していませんでした。私にもよく、日本人を信用するな、日本人は冷たい、ということを言ってました。私は何のことかピンと来ず、生返事するばかりでしたが。

 

今考えると、歴史を殆ど知らず調べもしてない勉強もしてなかった私では、父の話を理解することは不可能だったのでしょう。父が亡くなった後、様々に自分なりに調べ、史実を知り、また多くの生の証言も聞いたりする機会がありました。その過程において、父の体験したことへの理解が深まるようになったのです。

 

日本を憎み日本を軽蔑していた父でしたが、むろん日本人の友人を全く持たなかった訳ではありません。親しい友人も持っていました。父は洋服仕立ての仕事で身を立てたのですが、それも日本人の親方に出会ったことがきっかけだったそうです。日本に来て道路工事の仕事をやいろんなことをして生計を立てていましたが、父の表現によると、「初めて朝鮮人を差別しない親方(洋服仕立て職人)に出会い、仕事を覚えることができた」ということがあったそうです。その親方には大変感謝していました。

 

やがて、猛烈に仕事をして小さいながら自分の店と仕事場を持ち、数人の職人さんを雇いながら洋服仕立ての仕事が出来るようになりました。在日韓国人二世である母と見合いで結婚し、私が出生することとなります。

 

父の人生は、今から思うと本当に過酷なものであったと分かります。父は殆どその時の苦労について語ることがありませんでした。ごく断片的に伝えてくれることはあっても、すぐに話は途切れました。思い出すのも忌まわしい、との感覚が伝わってきました。私に対しても、お前には分からないだろう、と言ってました。今思い出すと、私自身に聞く姿勢が乏しかったのだということのように感じます。

 

こうした記録をするのも私にとっては少しつらいことになります。でも、しっかりと記憶し記録しておくことが必要かとも感じています。

 

父との間には多くの相克がありました。在日韓国人として日本で生きるのは、様々な障害があります。もっとも理不尽なのは、税金を日本人と同様に取られながら選挙権を全く与えられないことです。若い頃の私は、どうせ日本で生活するなら国籍を韓国のままにするのではなく、日本に帰化するということで解決することが多々あるのじゃないか、と考えてました。高校生の頃、そういった話をした時、ふだんあまり強くものを言わない父が珍しく、

 

「ワシの目が黒いうちは、いやワシが死んでも絶対にそれは許さん。」と激怒したものです。何度話しても理解を得ることができず、当時の私は父に対して、何と無理解なのだろう、と考えたものでした。

 

今では亡父の言葉を守るためではなく、日本に帰化するという選択は取りません。多くの在日韓国人が帰化していますが、それは個人の自由、様々な事情と考えがあるのだと思います。しかし、私は帰化しません。自分なりの考えを持つに至ったからです。鬼籍に入った父のためにもなる、という思いはむろんあります。それ以上に、様々なことを考え、日本に対する自分の立ち位置も考え、帰化する方向性は見送りました。

 

父のことを書くのは、自分にはかなりつらいことなのだな、ということが書いていて分かります。

 

ひとつ思い出したことがあります。学校を出て就職したものの、すぐに会社の社長と衝突し退職した頃、ふと、一度日本の外に出よう、しばらく外国で過ごそう、と計画しました。なぜこんなことを思いついたのかは、また後に機会を改めて書きます。資金は、引越トラックの運転手という仕事で貯めました。父は、ひとつとして意見を言わず、私の勝手にさせてくれました。約1年ほど外国で一人で生活したのですが、その時に、何通か手紙を書いてくれたのです。その手紙は今でも残してあります。こんな風に自分を思っていてくれたのだと、初めて気づいたこともありました。なので、自分の中ではそれは宝物になっています。

 

また、違う角度で書き残しておくこともあるので、今日はこれくらいにしておきます。いずれ母のことについても書き記しておきたいと考えています。